団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の短編小説集2

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「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

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「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

MY GARDEN 2010.06.17「大甘菜」

2010-06-17 14:29:46 | 写真

昨日は一日雨でした。今日は、青空に白い雲。風邪が強く吹いています。

今日は「大甘菜」を紹介しましょう。

オオアマナ(大甘菜)  ユリ科  

 学名:Ornithogalum umbellatum

 別名:ベツレヘムノホシ(ベツレヘムの星とはイエスが生まれたときに現れたとされる不思議な星)

 花期:春

西アジア、南アフリカ原産。

「オルニソガラム」「オルニソガルム」「オーニソガルム」とも呼ばれる。

20100617_001

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20100617_004

したっけ。

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「うわなり打ち(うはなりうち)」について考える

2010-06-17 09:20:40 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

うわなり〔うはなり〕【嫐】

Photo_2 歌舞伎十八番の一。「後妻(うわなり)打ち」の風習を題材としたもので、原形は元禄12年(1699年)江戸中村座上演の「一心五界玉(いっしんごかいのたま)」にある。

辞書:大辞泉

嫐(うわなり)歌舞伎十八番のひとつ。初演時の外題は『一心五界玉(いっしん ごかいの たま)』。 元禄12 (1699)江戸中村座において、初代市川團十郎により初演。

嫉妬にかられた藤壺の生霊を退治する内容らしいが、台本が伝わらないため詳細は不明。嫉妬事の一種と考えられる。

Photo

長らく上演が絶えていたが、1936年に五代目市川三升(山崎紫紅脚本)や1986年に二代目尾上松緑(戸部銀作脚本)によってそれぞれ復活上演された。内容的には、いずれも錦絵などを参考にして想像を大幅に加えたものである。

「うわなり打ち」離縁された前妻が後妻にいやがらせをする習俗をいう。この風習は後に儀式化されていく。日本の古代の一夫多妻制では、二度目およびそれ以後の妻を「うはなり」とよんだ。

「嫐(うわなり)」は通常の読みでは「嫐(もてあそぶ)」ですが、「嫐(うわなり)」がもともと「妾(めかけ)」または第一婦人以外を指すことからあてられたと思われます。

律令(りつりょう)制では一夫一妻のたてまえで、「嫐(うわなり)」を「妾(めかけ)」とよんだ。

平安時代になると、この語はいまでいう後妻の意に転じた。「うわなり打ち」という場合の「うわなり」は、あとの意味である。「後妻打ち」とも書く。

すなわち、ある人が妻を去り、その後まもなく後妻を迎えると、前妻が憤慨して、親しい女子を語らって箒(ほうき)や擂粉木(すりこぎ)などをもって後妻を襲撃した。後妻のほうでも親しい女子を集めて防戦に努めた。この習俗は平安時代から戦国時代ごろまで行われたが、とくに戦国時代には盛んであった。

「後妻打ち(うわなりうち)」とは、嫡妻こなみ・あるいは第一夫人)が後妻うわなり・あるいはあとからやって来た夫人)に対して、その嫉妬の感情を表明する儀式です。

2 「後妻嫉妬【うわなりねたみ】」を儀式化し、演じさせることにより前妻の嫉妬心を軽減さようとしたのでしょう。そうまでしなければならないほど、「後妻嫉妬【うわなりねたみ】」は恐ろしいものだと信じられていました。

又、当時の結婚形態(男が通ってくる)とか、家族や家系の中での妻やその実家の立場というものが影響していたのではないかと思います。自分らの面目を立てるためで、それをしないと一門の顔が立たなかったのではないでしょうか。

「後妻打ち」は、夫に追い出された先妻が後妻に対して恨みを晴らすため襲撃する、日本の古い風習または儀式のひとつである。

この襲撃にはルールがありました。

「後妻打ち」は、男性が妻と離別して1ヶ月以内に後妻をむかえたときに行われます。

まず前妻方から後妻のもとに使者がたてられ、その口上で「御覚えこれあるべく候、〇月〇日〇刻参るべく候」と後妻打ちに行く旨を通じます

後妻宅の家財道具は壊しても良いが、後妻本人に怪我をさせてはならない

夫は先妻、後妻のどちら側の応援をしてもならず、ただじっと見ているだけで、手出ししてはいけない。・・・などの決まりがあった。

Photo_3

当日、身代によって相応な人数をこしらえ、竹刀を主としてたずさえ、後妻方に押し寄せ台所から乱入し、後妻方の女性たちと打ち合う。家財道具を床に叩きつけて壊したり障子(しょうじ)や襖(ふすま)を破ったりして暴れるというもので、折を見て双方の仲人や侍女郎たちがともにあらわれて仲裁に入り、破壊活動を止めさせてケリをつけ、引き上げるという風であった。

Photo_4 古くは北条政子がこの「うわなり打ち」を行った(頼朝の浮気相手の女の家を度々襲撃した)という記録が残っているそうです。

江戸時代前期にはよく行われた風習または儀式であったが次第に廃れ江戸時代中期以降に自然消滅した。

室町時代の文化について書かれた歴史書の『烹雑の記(にまぜのき)』※には「(訳)元亀天正の頃(室町時代)先妻は襲撃の日時、味方の人数、武器の名前を書き新しい妻に渡す。当日は手に竹刀を持ち腰にも差し勝手口から乱れ入り、鍋、釜、障子を打ち壊す。頃合を見て仲裁役は間へ入り両者をなだめ納得させて先妻たちを帰す」とあります。

『烹雑の記(にまぜのき)』

1811年(文化8年)発行、 画工 勝川春亭(他?  随筆

『御堂関白記』平安時代の貴族の摂政太政大臣藤原道長が著した日記 

1012年:寛弘九年>長和元年>二月15日 

祭主輔親宅に 家の雑人多く至りて濫行を成すと云々。

よりて隋身を遣わして案内を問わしむ。辰の刻ばかりの事なり。

只今は一人もなしと云々。よりて家業を以て日記を成さしむ。

これ蔵と云う女方の宇波成打(うわなり)と云々。

家業は件の女方の因縁なり。よりてこれに遣わす。

入夜、日記を持ち帰る。面を知りて只今一人搦め進むべき由し、仰せ了んぬ。

めがたき‐うち【女敵討ち】

自分の女房を犯した男(間男)があったとき、その男を殺すことを「めがたきうち」と言うが、これは道徳になっている。このほうは、密通した男と妻とを一度に討つことが条件である。

したっけ。

コメント (3)
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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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