都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
教科書検定 「国定」復活を危惧する(11月25日)
これでは戦前の国定教科書の復活になりかねない。
文部科学省は、小中高校向け教科書検定に介入を強める方針を打ち出した。
愛国心を養うことを盛り込んだ2006年改定の教育基本法の理念を厳格に反映させるよう、出版社に求めるという。政府見解も確実に記載させる。
国が出版社や書き手に教科書執筆の基本姿勢まで方向づけることにつながる。改変に疑問を抱かざるを得ない。文科省に再考を求めたい。
戦後教育は政治から一線を保ち、中立維持を心がけてきた。国定教科書を使った戦前の国家主義的教育が若者を軍国主義に駆り立てていった反省に基づくのは言うまでもない。
検定の是非を問う故家永三郎氏の教科書訴訟で、最高裁が国の裁量権乱用に歯止めをかけたことを思い起こしたい。こうした流れに矛盾するのは明らかだ。
なぜいま、改変措置が必要なのか。安倍政権の意向が反映されているのは否定のしようがない。
安倍晋三首相は検定基準に教育基本法の精神が生かされていないと、かねて見直しの考えを示していた。
加えて自民党教育再生実行本部が今夏、「多くの教科書が(自国の歴史の負の部分を取り上げる)自虐史観に立つ」と批判を強めた。
文科省の方針は、こんな教科書批判や教育観をくんだものだ。
見逃せない問題は、新方針が「改正教育基本法の教育目標などに照らし、重大な欠陥がある場合は不合格にできる」とした点である。
抽象的な尺度では「自虐史観の傾向がうかがえる」などと門前払いすることも可能になるだろう。大半の出版社が萎縮し、表現の自主規制を迫られるのは間違いない。
検定はこれまでも政権の政治姿勢や歴史観などを反映してきた。
第1次安倍政権では高校日本史で、沖縄戦での住民集団自決の記述から「軍の強制」が削除された。その後は「軍の関与」や「日本兵による命令」の記述が認められてきた。
国が今後、より強い態度で臨めば、さらに極端なぶれが生じよう。
文科省は諸説ある場合はバランスの取れた執筆を求めるとしている。
旧日本軍による南京虐殺の犠牲者数には諸説あり、従軍慰安婦の強制性をめぐっても見解が分かれている。こうした史実を念頭に置いているとすれば、歴史観の押しつけにつながりかねない。
検定制度の趣旨には、民間の創意工夫に対する期待もあった。今回の措置は教科書の特色を弱め、画一化を加速させる懸念を拭えない。
何よりも教育現場や子どもたちへの影響が心配だ。
現在の教科書検定制度
現在の教科書検定制度は、1947年に制定された学校教育法に基づくものです。(第二次世界大戦の終了までは、一般的に教科書は政府が作成する制度でした。)この制度の下では、民間の出版社が教科書を執筆し、公的な検定と承認のために提出します。教科書は、日本の学校での教育の基準である学習指導要領に沿ったものでなければなりませんが、それ以外については、出版社は自社の教え方や考え方を内容に盛り込むことができます。
教科書の執筆や検定はいくつかの過程を経ます。最初に、出版社は学者や教師を集めてチームをつくります。このチームが内容や編集方針に関する議論を行いつつ、教科書を執筆します。
教科書が完成すると、出版社は見本を文部科学省に提出します。そこでは、教科書用図書検定調査審議会が教科用図書検定基準に基づいてその内容を審査します。審議会の提言に沿って、文部科学省は、ふさわしくない文言について再度検討するように出版社に伝えます。その後、出版社の修正が出され、審議会が、十分修正がなされたと判断すれば、適正なものと答申され、これに基づき文部科学省が検定の合否を決定します。(なお、この過程は1989年にかなり簡略化されたため、出版物における出版社の表現の余地は拡大しました。修正が求められても、教科書自体が不合格となることは極めてまれとなっています。)
文部科学省によって認可された教科書は、市町村・地域にて陳列され、一般国民の閲覧に付されることになります。どの教科書を使用するかの最終決定は公立学校であるならば地元の教育委員会に、私立学校であるならば各学校に委ねられます。いったん学校が教科で使用する教科書を決定すると、出版社に注文が出され、印刷や配送作業が開始されます。
以上の全過程はかなりの時間を要します。ほとんどの教科書作成プロジェクトでは、執筆チームが結成されてから、教科書が教室で実際に使用されるようになるまでには最低でも丸3年かかります。
「現在の教科書検定制度」では、何故いけないのでしょう。
なんだか、時代がどんどん逆行していく感じがします。教科書検定に介入を強めるなどとは・・・。
教科書出版会社は検定に通らなくなりますから商売に差し支えます。どうするか。従うしかありません。
こうして、教科書は国というより、頭のおかしな人の思い通りになる危険性があります。
事実上の「国定教科書」になる可能性があるのです。
都合の悪い史実は書かれなくなり、歴史の判断を誤ることになるのです。
「愛国心」は芽生えるものです。押し付けるものではありません。
国民は「知る権利」を失い、「偏った歴史認識」を植えつけられるのです。
子どもの頃から、刷り込まれた認識が、どんな結果になるか、私たちは知っています。
「特別秘密保護法」も、「教科書介入」も、その先にあるのは「国防軍」です。
怖い国になる。
したっけ。