都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「唐辛子」の原産地は中央アメリカ・南アメリカ・西インド諸島で大昔から栽培されていたようです。
コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時、中南米の地域ではインディオが痙攣(けいれん)や下痢の薬として「唐辛子」が使われていたそうです。
それを1493年頃スペインに持ち帰り、その後、16世紀にペインから日本に漢方薬として伝来したと言われています。
最初に九州地方に伝来した唐辛子は一般化とはならなかった。それまでの日本の食文化体系にはなかった猛烈な辛さのため食物としては受け入れられなかったそうです。
ですから、主に南蛮渡来の珍しい観賞用の植物として捉えられてしまったようなのです。むしろ毒草のひとつとして考えられたという話すらあるそうです。
ヨーロッパでは胡椒の代用品として広まったが、日本では当時仏教によって肉食が禁じられていたため、胡椒の使用も一般的ではなく、よって新種のスパイスである唐辛子が受け入れられる下地がなかったのです。
日本は島国であり、縦に長い国です。16世紀の交通事情を考えれば、九州地方の片田舎に伝来した唐辛子がすぐに都である京都まで伝えられていったとは考えられません。
文化的に需要のない珍しいだけの唐辛子は人の手を渡って各地に伝えられることもなく、九州地方を出ることはなかったのです。
1542年、ポルトガル人宣教師バイタザール・ガコが豊後の国守「大友義鎮」に唐辛子の種を献上した記録が残されていますので、間違いなくこのころに日本へ渡来したと考えられます。
中国へ伝わったのが明朝の末期(1700年ころ)だと言われ、日本の方が先に伝わったことになります。「唐辛子」の「唐」は中国のことではなく「南蛮渡来」を指し、外国のことだそうです。その後に朝鮮半島へ伝わり、「唐辛子」は今でも「倭椒」または「倭茄子」と呼ばれているそうです。
唐辛子の日本伝来の時期については現在まで大きく分けて4つの説が唱えられてきました。
① 1542年の南蛮渡来船説。(九州)
② 1552年のポルトガル人宣教師説。(九州)
③ 1592~98年の「文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)」の時に朝鮮から伝来説。(京都)
④ 1605年に朝鮮から伝来説。(京都)
日本への伝来 唐辛子の日本への伝来を具体的に記した文献は、江戸時代後期の農政学者・佐藤信淵(のぶひろ)の『草木六部耕種法』(1829)である。その著の中で「蕃椒は最初南亜墨利加州の東海浜なる伯亜見国より生じたるものにして、天文十一年(1542年)波繭杜瓦爾(ポルトガル)人初めて豊後国(現大分県)に来航し南瓜の種子と共に国主大友宗鱗に献ぜり。」と記している。
ウィキペディア
つまり唐辛子はポルトガル人の手によって九州地方にもたらされ、いったんそこに留まり、その後何らかのルートで朝鮮半島に持ちこまれ、さらに朝鮮経由で京都に渡ったと考えられるのです。このため日本伝来の史料は2つに割れ、現代まで混乱を持ち越すことになったのだと考えられます。
1613年の朝鮮文禄『芝峰縲絏』には、倭国から来た「南蛮椒」には強い毒が有ると記載があるそうです。
この翌年(1614年)に書かれた『芝峰類説』には、「南蛮椒には大毒があり、倭国からはじめてきたので俗に倭芥子というが、酒家(飲み屋)ではその辛さを利用して焼酎にいれ、これを飲んで多くの者が死んだ。」との記録があるそうです。
「胡椒(ペッパー)」が日本に最初に渡来したのは8世紀以前にさかのぼるらしく、正倉院に胡椒の粒が保存されているそうです。当時は、大変貴重な品(医薬向け)であったと思われ、殆ど知られることはなかったようです。
一般に使われるようになったのは、17世紀(江戸時代)、オランダ経由で入荷するようになってからです。 現代では胡椒は和食のイメージとはつながりませんが、江戸時代前半には「うどんの薬味」として流行しました。しかし江戸時代の後期になると今度は七味唐辛子が流行し、 うどんに胡椒を入れるという習慣は完全になくなってしまいます。
1709年に書かれた『大和本草』には「昔は日本に無く、秀吉公朝鮮を伐つ時彼国より種子を取来る。故に高麗胡椒という」との記述があります。
これが、「唐辛子」が朝鮮から日本に伝わったと誤解される元となったのです。
「唐辛子」はまず九州に伝わり、九州にとどまったまま朝鮮に伝わり、秀吉により逆輸入されたのです。
九州地方ではこの「高麗胡椒」の「高麗」が無くなり,単に「胡椒」と呼ばれるようになり、今でも唐辛子を胡椒と呼ぶ人も少なくないそうです。
逆に東日本では「南蛮胡椒」から「胡椒」が無くなり、単に「南蛮」になったと考えられています。「柚子胡椒」や「南蛮味噌」も共に「唐辛子」を利用した食品です。
英語では「唐辛子」を「レッド・ペッパー (red pepper)」と言います。胡椒とは関係が無いにも関わらず「ペッパー」と呼ばれているのです。その理由は、ヨーロッパに「唐辛子」を伝来させた「クリストファー・コロンブス」がアメリカ大陸をインドと勘違いして、唐辛子をインドで栽培されている胡椒の一種だと思ったからだそうです。それ以来、トウガラシ属の実は全て「ペッパー」と呼ばれるようになったのです。
したっけ。