関東大震災時、多数の人達が不安になった人によって殺された。もちろん朝鮮人、中国人、社会主義者、旅行者も含まれていた。この事情を書いた書物や証言は多い。まだ90年しか経っていない。多くの論拠の基準は震災によって生じた不安から思わぬ行動に出たとされているように思える。
ただ日本橋魚河岸に対する治安維持者の行動は余りも計画的で周到な準備をしていて魚河岸封鎖を成し遂げたと推測したほうが今となっては理解しやすい。江戸時代は3年に一度ほど江戸の町は大火があって、いつ燃えても良いように下層市民は借家が多かった。明治の市場移転計画が何度か挫折し、ようやく震災の直前に卸売市場法が出来、具体的な予定地を選考するときまで来ていた。ただ予定地が決まるまでに震災があって、移転候補地が決まっていなかったので混乱を招き、昭和10年の築地開場となったようだ。
震災の戒厳令下の魚河岸を軍隊による封鎖は表向きは『毒物等の混入を防ぐ』ということだったが、当初の混乱が収まると魚河岸封鎖の名分が『公道の不法占拠』と変わったようだ。この問題が『板舟権』の問題となり、さらに相対取引からセリによる取引とかの問題もあり、市議会の疑獄もあって大阪や京都に遅れて東京に中央卸売市場が開場した。
今となっては震災という名目で日本橋魚河岸が移転したこととなっているが都市計画の人達の中では大規模な火災が日本橋周辺で発生したら、公道封鎖を行っていたかもしれない。このようなことをふと感じたのは10年ほど前、築地市場の中で土曜日夕方火事があった。翌日の日曜日午前が消防署による現場検証が行われていた。午後から跡片付けが始まった。当然火元付近の状態を見ていたので月曜日は電気も冷蔵庫、電話もないので営業は出来ないだろうと思っていたが月曜日には通路で通常営業していた。
多分震災があっても一時の混乱の後、日本橋の魚河岸は復活していて築地には来てはいなかったと思う。軍隊、警察による日本橋付近の魚河岸再建封鎖が移転のきっかけとなった。これは明治の欧風化政策の最後の予定行動だったと思われる。