年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ミンミン小学校(美以美小学校)

2013年09月05日 | 福神漬

鉞子-世界を魅了した「武士の娘」の生涯-内田義雄著から

明治の広告史からフジヤマゲイシャの関連の本を検索したところ、新渡戸稲造『武士道』と同じようにアメリカで評判となった「武士の娘」の評伝を読むこととなった。
 杉本(旧姓稲垣)鉞子は1872(明治5年)現在の新潟県長岡市に生まれた。日米を何度も往復し、それぞれの固有の文化を伝えようとした本と思える。詳しい書評は長くなるのでドッキリした部分を書きたい。
 没落した家老の娘が周囲の援助でキリスト教学校だった築地の海岸女学校に入学した。学費もまともに払えなかったようで卒業後5年程浅草の美以美小学校(浅草デースクール)で教師として働いた。樋口一葉と同年に生まれた杉本鉞子が同じときに浅草に居た。一葉の『たけくらべ』の子供たちがミンミン小学校に通っていても不思議ではない。ちなみに、鉞子の「鉞(えつ)」は“まさかり”という意味です。福神漬に入っている『なた豆』は漢字で書くと鉈豆とか刃豆と書きます。
 明治憲法発布後、信教の自由は公式に認められましたが天皇のもとの信教の自由のため、内村鑑三事件[明治24年]の後キリスト教布教が停滞する時期でした。杉本鉞子が浅草に居たとき(明治26年から31年)下谷教会で牧師をしていたのが山中笑牧師でした(明治28年から33年)。山中笑(共古随筆)にはなた豆の記述があります。当時の浅草周辺の貧民街でどの様な活動をしていたのでしょうか。
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