年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

文明開化の香り 缶詰入り漬物

2013年09月06日 | 福神漬
日本広告発達史 上 
内川芳美編(電通創立75周年記念出版)
江戸時代末期の広告
商品経済の発展と共に都市において広告もその形態、方法とも変化し発展してきた。まず看板、暖簾が普及し,商家の宣伝の常識となっていった。色々な看板のなかに判じ物看板があった。この判じ物看板は商品や職業名との語呂合わせ、見立て、なぞかけの洒落、滑稽風の看板があったという。○やき十三里というノボリが比丘尼橋雪中の浮世絵にあった。これは焼芋のことで九里四里(栗より)うまいということで十三里は焼芋のことである。山くじらはイノシシのことで肉食を間接的に表している。
 江戸時代に新たに創始された広告は引き札(今のチラシ広告)景物本(開店祝いの時に配る宣伝パンフレットのような本=主に戯作者が書いた)がある。景物本の中に商家や商品の宣伝文巧妙に忍ばせていた。黄表紙本も中には出版人と商店のタイアップ広告から始まった企画もあるという。江戸時代後期の戯作者は広告の発達史に関係してくるのはこのような事例があったためである。同様に錦絵入りの引き札もあり浮世絵画家も関係してくる。
 また歌舞伎のセリフも広告に利用するということも行われた。歌舞伎十八番(外郎売)の元となったのも小田原の売薬商のセリフによる宣伝であるという。
書籍に広告を載せたり、湯屋、風呂屋に張られた広告もあったという。明治になって文明開化の状況が安定してきたとき、積極的な消費需要を喚起する広告が発展したのは江戸においてすでに前駆的形態があったためである。
 明治維新によってわが国は近代的な統一国家となり商品の自由な生産・流通による国内市場の形成の道が開かれ、近代的な商品経済の拡大の道が開かれた。ここに至って広告が販売促進や需要喚起の手段として必要となってきた。この明治という時代に新聞というものが広告手段として登場してきた。明治10年までの新聞広告は書籍と売薬広告であった。10年代後半の松方デフレ政策の結果として、産業資本化され会社が勃興して、広告が活発となった。
 明治初期の売薬広告は書籍広告に次いで多かったがこの広告で目立ったのは池之端仲町胃腸薬[宝丹]の守田治兵衛、銀座の岸田吟香の目薬[精水]だった。特に守田は[宝丹]を売り広めるためあらゆる広告媒体を巧妙に利用した。引き札を初めとして、銭湯に出かけ、親しき湯女に薬の効能を語らせ、ポスターを掲げたという。明治の新聞広告は文明開化の香りを乗せていた。その中で漬物が『缶詰』に入って文明開化の仲間となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする