福神漬の命名者の文献から。
金鵞は通称瓜生熊三郎、名を政治(まさやす)といい両国薬研堀(東京都中央区東日本橋付近)で生まれた。父の名前は吉田勝之丞といい、柳剛流の剣客だった。次男として生まれた金鵞は剣を幼少から修めかなりの使い手だった。諸国の武者修行の後天保10年江戸に帰り、父の代稽古していたが、弘化3年瓜生家に見込まれ本郷附木店(今の本郷5丁目)に住んだ。26歳だった。幕末の始まりとなる嘉永6年ペリ-来航の10年ほど前の時期だった。
嘉永の初めの頃友人の万亭応賀(本名服部孝三郎)の引き合わせによって、人情本作家の松亭金水の門下に入り、梅亭金鵞を名のった。最初は筆耕を行い、安政4年から彼の代表作である滑稽本(妙竹林話七編人)で作家となった。この時期の遊び仲間を(遊喜連)で万亭応賀、竹葉舎金瓶、杉亭金升、古森金浄、梅の本鶯斎らが七編人のような遊びで暮らしていた。またのちには鈍亭魯文(仮名書魯文)、山々亭有人(條野採菊)とも交わった。維新後、小石川白山神社裏に住み仮名書魯文にならって啓蒙書を著作する傍ら、戯作の執筆を続け、明治10年創刊された団団珍聞の主筆として活躍した。明治14年に団団社を退職し、都都逸の選者をなどをつとめていたが明治17年に赤本専門の鶴声社の編集企画主任に迎えられた。この頃出版界で活版印刷による戯作の再刊行が流行していた。開花期の生き残りの戯作者として利用された。福神漬が命名された時期は七編人の再刊行の影響があった。
明治26年6月30日本郷団子坂下の自宅で歿した。享年73才。元浅草の称念寺に葬られた。