年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

石井研堂の缶詰のはじまり6

2018年12月30日 | 福神漬

石井研堂が郡山小学校の代用教員だった明治15年頃は福島県で自由民権運動が盛んだった時代でもあった。石井研堂の評伝を書いた山下恒夫氏によると郡山の発展の立場に立つ、郡山と二本松付近では反明治政府という自由民権運動は盛り上がらなかったという。石井の明治事物起源に福島事件の記載が無いのはこの様な理由があったようだ。二本松は三春藩の裏切りによって二本松藩は敗退したという意識が強く、三春の自由民権運動指導者河野広中への反発が強かったという。

 郡山の小学校で石井研堂は二本松藩士の子であった高橋太華と知り合い、終世の友となった。ただ維新後賊地となった福島県人の高橋は東京に活路を求めるようになった。石井は先に上京した高橋の後を追うように経歴が進む。高橋の徴兵逃れのため隠れた生活をしていたが石井も長兄の徴兵拒否騒動の影響があり上京した理由の一つとなっている。明治18年芝公園内にあった岡鹿門塾に入り漢学を学んだ。

 明治20年代に少年向けの雑誌の編集者となった高橋に続いて、石井も少年向けの雑誌(小国民)の編集者となった。高橋が下谷根岸に住むと石井も根岸に住むようになり、根岸党という独特の江戸懐旧趣味のある人々と付き合うようになる。

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