第二次コロナ感染で再び家人より、不良在庫となっている本の処分を命令される。今回は前回より、強烈な顔つきで、無期限と言っても10月までで処分すると言い逃れ、積ん読から既読へ変更すべく読者開始。
(お役所の掟―ぶっとび霞が関事情)を読む。1993年初版で著者は1999年パリで死去。今生きていたら厚生省OBとして検疫医官で岡田晴恵女史より、痛烈な厚生労働省批判があったと思われる。今でも30年前の役所の状態が続き、忖度のないコロナウィルスのために迷走している。
要は命の選択の議論の回避でますます政策の幅が狭いのにすでに効果が見えないバラマキで余力が無くなった。命の選択の議論はどこどこかで行われなければならない時期に来た。高齢の母を見ていると、命の選択決断が日常会話で出てくる。チョットした熱でも自宅で死去したい母には厳しい選択となる。食事ものどに詰まらせると窒息死となる。24H監視で行動制限となる。これを今の法律では注意義務の法律違反となる。起訴されれば執行猶予付きの前科者となる。起訴猶予にはならないだろう。なぜなら無罪放免ならなし崩しで介護放棄が進む。
このことを回避するには医療裁判所が必要になる時代が来た。脳死で何年経ったら裁判所に判断を委ね、点滴治療のみとすることを判決してもらう。憲法上、日本人は死ねない。幸せに生きなけれならない。でも若い人の夢を介護の倫理で殺すことは無い。
増えない税収で有能な知識を旧習を保持するために使う役人。でも先行きのポストは海外にしかない。閑職で給与のいい仕事は年々少なくなる。コロナのリモ-トで相談役も出勤不要となる。前例を記憶する日本の入学試験は限界に来たようだ。