年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

八丈実記 幕臣親子のとんでもない史実

2020年08月06日 | 福神漬
石井研堂の明治事物起源で缶詰の始まりという項目がある。この内容は缶詰に漬物を入れたのが日本の缶詰製造の始まりと石井は記述した。しかし業界団体の日本缶詰協会は長崎が発祥地とし、製造に関しては北海道開拓使とされている。石井の記述した部分はコラム扱いとなっている。その石井の缶詰の始まりに文政の三蔵(間宮林蔵・近藤重蔵・平山行蔵)の一人近藤が書かれている。明治の事物起源には場違いな人物だと思っていたがここにも石井の隠しメッセ-ジがあった。近藤重蔵は今のエトロフ島に日本領土と書いて柱を立てた。これが今の北方領土返還運動の根拠となっている。

 学者じゃないから適当に近藤重蔵の長男の流人だった近藤富蔵の八丈実記をパラパラ読みする。流人の記録で判決を言い渡した筒井伊賀守とか長井五右衛門とかの名前が出てくる。目的の高野長英の逃亡を助けた宮野信四郎はあるのだろうか。
 明治の初めに恩赦があって、流人島に流罪となった犯罪者の多くが赦免となった。しかし近藤富蔵がその選から漏れ、石川島造船所を作った平野富治によってかなり遅れて釈放されたが、最後には八丈島に戻り余生を過ごした。八丈実記には平野富二の名前に大恩人と書いてあった。IHIの元重役が書いた平野富二の評伝を読んでいないと気が付かないだろう。平野は乗っていた船が故障で八丈島に避難した。その時世話になった近藤富蔵の赦免運動をし、富蔵は自由を獲得した。
 八丈実記は当時のことに興味が無いと読むことは無いが幕末の地方行政を知るには良い史料だ。
 明治11年6月10日東京日日新聞と6月24日の郵便報知新聞の近藤富蔵が報道され、60年間忘れられた人が復活し、歴史に残る。またこの後の新聞記事で三河屋幸三郎が近藤富蔵に寄付した記事があった。三幸と言われた人物は彰義隊兵士の埋葬とか河鍋暁斎に出入りしていることが福神漬の資料調査で出てくる。
 それでもなぜ石井研堂は福神漬缶詰に近藤重蔵を記述したのだろうか。謎は次々に増える。
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