年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

気楽でない遠山の金さん

2020年08月23日 | 宅老のグチ
今遠山 景元(金さん)の関連の本を集中的に読んでいる。天保の改革の時代の後遺症というべき制度が築地市場が豊洲へ移転するとき、薄々感じていたが、今みたいに自宅軟禁状態でなければ進んで調べることはない。
 この遠山 景元は比較的知られている人物なのに研究書が少ない。その理由として調べれば調べるほど世間の評価と研究者の食い違いが多すぎる。江戸の中心地に歌舞伎の演劇場があったのを郊外に移転させた功績が歌舞伎救済の恩人として扱われている。このような観点であれば河原乞食の文化と言われていた歌舞伎を日本文化として天覧劇とした明治人たちをもう少し評価しなければならない。
 天保の改革時には遠山は出版文化を弾圧し、歌舞伎を郊外に追いやり、株仲間を解散させた。さらに天保改革時の質素倹約の規制法は遠山が起案したものが多いという。
 水野忠邦が天保の改革に失敗した時、すでに遠山は北町奉行を追われていて閑職の大目付にいたため、反動の余波を避け、南町奉行となった。研究者によれば世渡り上手という。
 なぜ遠山が気になるかと言えば、嘉永3年10月末の高野長英の捕縛死がまだ不可解であるからである。
 明治26年明治座の開場記念の脚本で竹柴其水 作「遠山桜天保日記」という歌舞伎が上演された。無実の罪で投獄された人物が牢破りし、研鑽して社会に潜伏していたところ、牢仲間に見破られ再度犯罪に誘われそうになったが、芳村金四郎と名乗っていた人物に救われる。芳村は遠山金四郎で裁きの場で牢破りの罪をお叱りだけで済ました。
 高野長英が嘉永3年10月末に南町奉行の与力たちに惨殺されたのは(記録上自死)与力たちが軽い判決を予想していて、火付けで牢獄から逃げたことを許せなかったからと思われる。
 竹柴其水はこのような筋書きをどこから得たのだろうか。原胤昭か佐久間長敬 か。(佐久間は嘉永3年南町奉行与力見習になる)明治に生き残った南町奉行関係者から聞いているかもしれない。高野がもう少し脱獄するのを我慢していたらとか、もう少し江戸に戻らなったらもっと長く生きていたかもしれない。江戸に潜伏していたら治安維持を自負する江戸町奉行与力たちのメンツが保てない。高野の翻訳語から生存説が出回り、再度牢仲間を江戸市中を探索させ、見つかったと思われる。ここの捜査中に遠山の生け捕り方針と与力の気持ちの食い違いから撲殺に行ったと思われる。当時の逮捕の基本は生け捕りである。高野は死後も塩漬けで処罰された。もし生きていたら南町奉行遠山金四郎はどのような判決をしたのだろうか。
コメント
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