年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬と岩崎弥太郎の死

2021年11月29日 | 福神漬
明治18年2月三菱の岩崎弥太郎が胃がんで亡くなった。激烈な二つの日本の海運会社が岩崎の死後統合することになった。日本郵船の始まりで、明治18年秋の事である。
 食品事典では福神漬の創製時期を明治18年としているものがある。酒悦さんの話では上野戦争で荒廃した寛永寺周辺の公園整備が行われ、江戸時代と同じような賑わいが始まり、酒悦主人が花見や博覧会見物の観光客のため持ち運びの出来る漬物ということで、水産博覧会で見つけた缶詰に開発した漬物を入れ売り出した。しかし缶に入れたため、今の価格に換算すると1缶2千円となり、とても高価で売れ行きが悪かった。そこで折からの活版印刷で安くなった戯作本の貸本屋需要が増えていたので再販ブ-ムが起こり、梅亭金駕の戯作(妙珍竹林話七偏人)に池之端の香煎茶屋が出ているので、缶詰入りの漬物にブランド名をつけてもらい、さらに広告文案も作成してもらった。この明治18年という根拠はまだ見つからないが通説となっているようだ。いきなり今の福神漬のようなものが出来たのでなく、三種の野菜から梅亭の案で七種となり谷中周辺で行われていた七福神巡りを想像できるように命名した。広告文案でも節約とかおめでたいという内容だった。しかし梅亭は戯作者で命名の中に明治政府を密かに批判していた。それはナタマメで漢字では刃豆・帯刀の意味もあった。酒悦主人は明治の中頃までチョンマゲ姿であったという。

 三菱の経済的支援で英国に留学した磯野計は帰国時に船舶御用の商人が横浜で外国人に占拠されているのを知り、明治屋を起業したのは明治18年である。
 第一次大戦末期に日本郵船の常陸丸がインド洋で行方不明となり、戦時海上保険かどうかの問題が生じた。そのため捜索船が出てインド洋の中部にある島で、酒悦のマークのある木箱と明治屋の練乳の箱が見つかった。これで遭難が確定し、新聞報道となった。この事件は長谷川伸の(インド洋の常陸丸)という小説となり、日本郵船社員の基礎知識となり、福神漬がカレ―ライスに着いたという社内報が文献として残った。食の世界の元祖・本家論争は先に根拠らしきものを出したところが定説となる。
 新聞報道の後、ドイツに乗客船員が抑留されていた報道があって、敵国家であるドイツによって、爆破沈没されたことがはっきりした。しかし、戦時海上保険の支払いの義務を生じる日本政府は三菱の保険金支払い要求を新聞報道だけでは支払えないと言っていた。
 第一次大戦で日本の海運は大儲けをしたが、日本郵船は戦時海上保険のリスクを政府がとっていたので、この問題は重大だった。
 また第一次大戦後に東京海上保険が売り上げが伸び悩み、三菱海上保険と統合した。それ以前の東京海上保険は三菱が10%の株主だったので、日本郵船の顧客への値引きがなく、独立性の強い保険会社だったが、三菱海上保険と統合し、今では三菱系の海上保険会社となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする