予約制が無くなってもまだ人数制限のある都立中央図書館で下記の本を読んだ。
戦時下の滋賀師範 昭和18年の卒業生
滋賀県平和祈念館編 -
今の滋賀大学教育学部の前身だった、滋賀師範学校を昭和18年9月末に繰り上げ卒業した人たちの記憶を本にしてある。昭和14年に小学校教員養成の師範学校生が卒業して、5か月の短期兵役の特典が無くなった。そのため滋賀師範学校卒業生で昭和10年以降の卒業生の兵役状況が下記のようになっている。
昭和10年卒業 2名死亡
12年 1名
13年 1名
14年 2名
15年 36名死亡 短期兵役制度廃止
16年 24名
17年 36名
18年 16名
19年 0 本土決戦ということで、兵器なしで終戦時国内に配属
従って戦死者はいなかった。
戦争とは生まれた年で決まる理不尽な運命を強いていた。
1920年から後に生まれた子供は幼児の時から、恵まれない時代であった。
昭和18年6月から海軍は短期養成で飛行士を募集した。太平洋戦争の分岐点となったミッドウエー航空戦で多数の飛行機とパイロットを失った。そのため通常は数十人だった飛行士の募集が5200名となった。陸軍は7月から遅れて募集が始まり、特別操縦見習士官として1期生は2700名となった。
この飛行士官の募集について、滋賀師範学校では学校からの勧奨は無かったようだが皇国国民を作る先生として、応募する方が自然の流れであった。師範学校に派遣されている陸軍の配属将校から(お前たちの人生は50年でなく、25年とだ)とあきらめるように言われていたようだ。(国を救うのはお前たちだ。)どうせ短い命なら、潔くという考えもあったようだ。
危険性があって、飛行士試験に応募しない学生も、戦況の悪化は間も無く招集が来ると思っていたようだ。
師範学校を昭和18年卒業し、生き残った人たちは今は96歳を過ぎつつある。多くは亡くなり、生き残っているわずかの人の記憶もあいまいになる年代となった。