年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

三野村 深川区西大工町

2021年11月07日 | 宅老のグチ
NHKの大河ドラマで渋沢栄一と三井の大番頭三野村利左エ門の金融での戦いがあります。三野村合名会社は三野村利左エ門の子孫の資産管理会社で今でも大江戸線清澄白川駅の小名木川水門近くにあって、昭和20年3月10日の米軍空襲では2階建てのコンクリ-トの建物内で付近の多数の住民の命を救ったようです。墨田区本所1-4の事をこのブログに書いて、そこの人から元の持ち主が三野村合名会社と聞き、日暮里繊維問屋街で商売をしている人に確認したところ、やはり三野村から買い取ったという。本所1-4の現況を確認したところ、今は大京という会社が11階建ての集合住宅を建設中でした。今はバブル時と似ていて都内の風景が激変中で、日暮里であった人からもっと早くくれば、三野村との経緯が知り得たことを知る。99歳で昨年亡くなったという。急がねば情報入手先が消える。
 墨田区曳舟図書館で司書の方から、昭和6年頃の地籍台帳で厩橋1-4は深川区西大工町の三野村合資会社の所有であった。そこで今の清澄2-8にある三野村株式会社と同一かどうかの確認を江東区深川図書館郷土資料室で明治45年の地籍台帳と地図から同一と思われる。しかし関東大震災前の地図で震災後の地図から、建物は震災後に建設され清洲橋通りに面して今でも残っている。
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親の想いを感じる

2021年11月07日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
9歳の時、父親を亡くし、早65年となる。父親の60回忌を出来る人や幸せというがそこまで兄弟がグレずに育ったのは母を支援してくれた周囲の力があってのことと感じる。今の若い人が失敗で一家心中するのは希望が見えないと見ている。当時はまだテレビが出始めたときで、父の自慢は町内で割と早くテレビが入った。当時の給与が月給1万円を下回っていて記憶では17万円ほどであった。
 何もわからず育ったが今となって漏れ聞く父の思いはあるようだ。断片的に母から戦争の話を聞くが、戦後に生き残るのが必死で今は苦しい思いが残っているようだ。母の顔に刻まれたシワは苦労と喜びの戦歴と思う。

 母から漏れ聞く父の話は今では認知症になっているため確認できない。若いときからの話と最近の話が混じって、さらに脚色があって真実とは思えない話もある。その中でも徴兵検査で偏平足ということで不合格となったことを言い伝えとして残っている。昭和20年2月1日に横須賀の海軍に入隊したのだが、20歳の検査時期はまだ大陸での紛争もなく、軍隊では不必要な人材だったと思われる。東京の下町で陸軍納入の漬物業者のところで働いていた。当然軍隊の内部状況は自然に入っていて、特攻に行ってしまった叔父が陸軍特別操縦見習士官の試験には(不合格)を示唆した可能性がある。どんな試験でも競争率が1倍を超えていれば、落ちるのは簡単である。生母に軍隊の受験を知らせないかったと思われる。
  昭和18年9月8日に毎日新聞埼玉版に埼玉師範学校から陸軍10名、海軍23名、浦和高校から2名、重複合格1名となっている。つまり昭和18年9月繰り上げ卒業となった、男子埼玉師範学校生139名中、33名が飛行機の士官試験に合格した。
 高田英夫著(陸軍特別操縦見習士官よもやま話)から師範学校の出身の隊員が多いと書かれている。当時は予科練の歌で海軍航空隊の方が人気があって、競争率も高く、海軍は10倍を超え、陸軍は締め切り期間を延長しても5倍程度だった。全国各地の師範学校には陸軍出身の軍事教練の教官が派遣されていて、海軍との応募の差を埋めるため師範学校の生徒に応募のノルマがあったと思われる。真面目と評価されていた叔父は受験志願書を教官経由で提出せざるを得なかったと思われる。試験は受けるけど、密かな想いで不合格を画策し、落ちた。そのため生母には受験したことを伝えず、学徒出陣ということでごまかした様だ。これで同期の特操一期生と軍歴が異なることになる。他の一期生は昭和18年10月1日だが叔父の軍歴は11月1日から熊谷の飛行学校に入隊となった。もしかすると受験自体もなく、海軍にも合格した埼玉師範学校生のため、急遽教官によって、追加受験を強制されたかもしれない。この時期叔父は小学校でチョットだけ教員をしていて、後に小学生の慰問文が自宅に送られたという。
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