このところ火付盗賊改のことを調べているが史料を読んでいると未完成の組織だったことが解る。その中で引継ぎのマニュアル作成をしていたようだ。これが今の歌舞伎の牢獄場面のもとになっているのだろうか。
田村成義はもと小伝馬町牢屋敷同心鍵番を勤めた田村家の養子に入った関係で牢屋生活に関して詳しかった。歌舞伎『四千両小判梅葉』に参加しているようだ。漬物とは関係なさそうなことだがどう展開があるかはまだわからない。
このところ火付盗賊改のことを調べているが史料を読んでいると未完成の組織だったことが解る。その中で引継ぎのマニュアル作成をしていたようだ。これが今の歌舞伎の牢獄場面のもとになっているのだろうか。
田村成義はもと小伝馬町牢屋敷同心鍵番を勤めた田村家の養子に入った関係で牢屋生活に関して詳しかった。歌舞伎『四千両小判梅葉』に参加しているようだ。漬物とは関係なさそうなことだがどう展開があるかはまだわからない。
消費税の軽減税率のために食品衛生法の区分を適用すると言う。もともと税率を考えて法律を作っていたのでないので例外が多くなりそうだ。椅子のない立ち飲みはどうなるとか。
漬物の区分も色々な日本の食品の歴史を背負っている。それらは税金のことを考慮しつつ区分したのでないからあいまいな部分もある。
税金が食品に介入するとイビツな税逃れのための食品開発で健全な食品開発が遅れる。ビ-ルの税逃れ開発で世界の中で孤立した日本のビ-ルとなっていると言う。
明治大学の刑事博物館の資料の中に長井五右衛門の名前があった。長井五右衛門は文政元年12月より文政8年12月まで火付盗賊改の職にあった。勝小吉(勝海舟の父)が頭と言っている長井五右衛門のことである。
河竹黙阿弥作『四千両小判梅葉』の小伝馬町牢内の場が牢内を活写した作品として有名であった。この歌舞伎が出来たとき佃島から自由民権家が脱獄した後だった。初演は明治18年だった。四千両小判梅葉と牢内深秘録は40%ほど一致すると言う。黙阿弥が参考に使った可能性があると言う。
鶯亭金升が小林清親の仲人で結婚し、池之端御前と言われた福地桜痴の家に間借りした理由はまだわからないが牢内深秘録の縁があるかもしれない。
明治事物起源を著した石井研堂は何処で缶詰の始まりの資料を集めたのだろうか。西日暮里にある福神漬顕彰碑は明治の終わり頃に立っているが影響はあったのだろうか。
この明治の起源に関する本で缶詰に関して、島原の乱から書いてあった。漬物の歴史から、石井研堂が明治という時代を語っているように思える。
これは調べる必要がある。
明治事物起源はそっけない本だが缶詰の始まりは何か他と違う記述と感じる。
暮れの大雨と強風によって波除神社のイチョウが散った。歩道には敷き詰めた黄色い絨毯のようだった。豊洲へ行けばこの風景を見ることはないだろう。来年初めの注文が入りつつある。たぶん今日辺りが年内に確実に届く最後となるだろう。事故がなければ普通に終わるだろう。テレビ局の場外市場の放映影響も見えない。何時も外国人で混んでいるので店先の英語表示も普通となった。築地市場内のトイレの使用方法も三ヶ国語表示となった。まだまだ増えるだろう。市場の溜り場ではタガログ語が聞こえる。他の国もあるような気がする。
何時も入れているガソリンスタンドの価格が113円になった。この価格だと千葉は100円台だろう。震災後エネルギ-価格が上昇し貿易赤字となっていたが今は黒字となりそうだ。
年が明ければ震災後5年という節目の話が聞こえる先日あった震災被災者の支援をしている人の話から被災者の心の分裂を感じるという。
あと20日で今年が終わる。築地市場での最後の大混乱となるのだろうか。大根の置き荷が気になるがデ-タによってコントロ-ルされているので,かっての置きに荷混乱が少ない。先週末に浜離宮前のトンネル工事が一部終わったようで、青果門まえの渋滞が短くなった。トンネル工事の終りの始まりだろう。実に長い工事だった。下水管の付け替え工事から数えると20年近く工事していたと感じる。市場が移転し工事が終わる。さらに10年たてば駅名も場外市場を示す物となり、築地市場本場があったことを忘れるだろう。25年ほど前移転した秋葉原に青果市場があったことを示すものが今でも残っているのだろうか。
今朝も10度以下となったようだ。ようやく冷蔵庫気温となり、雨さえなければ気楽な管理となる。11月は沢庵漬原料の漬け込み時期で、寒くて好天が続くと良い干し大根が出来る。
この前愛知県渥美半島の業者と話したら、もうハザ掛けで干す風景が見ることが少ないという。
昔の沢庵漬は翌年夏を過ぎたら、塩がなじんでさらに醗酵が進む。今は幻となった渥美沢庵。 来年の11月は移転月。12月へ突入したら大根の暴落とは。
筒井正憲のことを個別に調べている人はあるが個人の関係を書いている本が今のところ見当たらない。南町奉行を20年ほど務めているので事件は多かったのに講談等で伝わるに過ぎない。勘ぐれば講談があるため史実と勘違いされない歴史を書けない事もあるのだろうか。
二番町に住んでいたとき松林伯円との縁が出来たことが災いしているかも知れない。二番町は四谷に近く、幕府の治安維持の人達が多く住んでいたようだ。
文政の三蔵(蝦夷三蔵ともいう)という言葉を知った。平山行蔵、間宮林蔵、近藤重蔵のことである。この三人は北方領土に関係してくる。平山行蔵には弟子に相馬大作がいた。大作が逃亡時、周囲の剣客が彼を匿ったという。平山行蔵はロシアが北方領土を狙っていたとき伝馬町の囚人を警備に使うという案を考えていた話がある。
平山行蔵には勝小吉が通っていたという。勝が岡野家の敷地に住んでいたとき、支配頭が長井五右衛門だった。
鶯亭金升によると長井家の話が芝居になっていたというがまだ見つからない。相馬大作事件のことなのだろうか
昭和5年2月8日 当時鶯亭金升は都新聞社に勤めていたようだ。
友人より書簡があり、相馬大作を捕縛したのが長井五右衛門昌純という。
相馬大作を江戸の浪人剣客が庇護したため容易に逮捕することが出来ず、長井五右衛門の手を持って逮捕した。岩手県史によると長井昌純は金銭をもらって逮捕したとして悪評判となっている。歴史小説を書いている宮城賢秀さんの小説では長井昌純はどの様な扱いなのだろうか。
暇に任せて、長井五右衛門を検索する。すると勝海舟の父勝小吉の名前が 出てきた。何か関係がありそうだ。そこそこ調べると長井五右衛門は麹町付近に住まいがあったようだ。事実確認をするために勝小吉の関連本を借り出すことにしよう。
鶯亭金升の父長井筑前守昌言の養子先の配下の人(岡野)のところに勝海舟が住んでいたのだろうか。
もしこれが本当なら福神漬にまつわる史実に驚くことになる。
野菜の日本史を調べるには本草の知識が必要となる。今の植物学と違っていて何か薬事効果を期待していたようだ。
ナタ豆のことを長年調べているが江戸後期の本草学者はシーボルトとの関係が多かれ少なかれ書かれている。(武江産物誌)の著者である岩崎灌園もシーボルトと関係があったようだ。幕末時、江戸の空にはトキなどの今では希少な動物が生息していた。
前はわざわざ図書館に行って貴重書を閲覧していたが、今では自宅のパソコンで国会図書館の古書を読むことが出来るようになった。まだまだ不便な点があるが地方の人達が情報収集に不利となる時代が減ってきた気がする。
このところの漬物業者の廃業の加速を見ていると、栄枯盛衰は何処にでもあることでここを打破したところが次代を担うと思われる。
ベッタラ市は商家の祭りで調べている過程で商家の主人が次代を長男に任せた例より、記憶に残るのは優秀な勤め人を娘婿養子として継がした例が目立った。ところがタクワン漬の歴史を見ていると長男を能力に関係なく継がしていたようだ。ただ幕末に活躍した徳川方の官僚は養子が目立つことに気がつく。黒船が来たことにより能力主義になったようだ。
養子で突然活躍していたことで歴史家が経歴を見過ごすことも多いようだ。特に神奈川奉行.堺町奉行を歴任した長井筑前守は開明官僚として歴史学者の著述に現れるが経歴は不明とある。ところが福神漬の歴史を調べていると重要な人物となる。
福神漬のことを調べていると、その販売拡大の力となったのは芸者の人達の口コミ宣伝があった。当時として高価な食品となってしまった缶詰入り漬物(福神漬)を販売するには様々な販売促進の手段がとられた。特に近代日本広告方法の先端を担ったのが池之端の薬老舗の宝丹だった。隣近所の宣伝方法を見習い広告方法を考えたのが酒悦主人だった。
明治初期の東京の人口は旧幕府の多数の人たちが静岡に行き、大幅に減ってしまった。東京では今の都心で桑栽培が奨励されていた時期もあった。寂しい東京で新橋芸者と下谷の芸者がそれぞれの需要を取り込んで活躍した。下谷の芸者はどちらかと言うと新政府にはなじみがなく江戸の風情を求めていた。そのような時上野で福神漬が誕生した。缶詰入りの福神漬は土産として次第に普及していった。当時は酒の友であったようだ。