『やんちゃジジイ・ゆうちゃん』のイカすセカンドライフ

我儘で『やんちゃ』な爺さんの目標は、
周りに笑顔を振りまいて、楽しくセカンドライフを生きる事。

自分にガッカリ・・・潮時かなぁ?

2017年07月31日 | 定年退職後の人生

先月、出荷した装置。
僕がやった半田付けが上手くできてなくてクレーム。
18台中、7台が不良品。
元々、僕は手先が器用じゃないうえに、今回の作業は不本意ながらやった仕事。
それでも、一生懸命やったのだけれど、出来栄えが悪かった。
いわゆる『金のとれる仕事』ではなかった。

言い訳になるので嫌だけれど、目が悪くなって細かい手作業をするにも
細かいところがぼやけて良く見えない。
拡大鏡を使っても焦点が合わなくなっているほどなのです。
やっぱり止めておけばよかったのかな?
まぁ、嘆いたところで結果が変わるわけじゃない。


で、思ったのは『いいきっかけだから辞めようかな』。

僕は元々設計者なので、手作業は不得手なうえに、あまり好きじゃない。
この半年、色々と考えていたのだけれど、これという辞めるきっかけもなかった。

ただ、自分の人生を考えると、何だか時間を無駄に使っている
という気持ちが、ずっと続いていて、この間も、友人の所長に
『8月で定期がキレるけど・・・・』
と言って、それとなく進退伺いをしたばかり。

今の仕事をやっていて、周りの意識があまりにも低いので
僕が嫌になっているのも、そういう気持ちに拍車をかける。
そんな僕の心中を、所長はなんとなく察している様子。
『気持ちは解るけど、もう少し付き合ってくれないか?』
と言われたばかり。

それでも、まだ役にたっているみたいだし、頼りにもされているので
自分の存在感はある程度満足されているんだけどね。

でも正直な話、自分のやった作業の質があまりにも悪いので、
自分が腹立たしいし、そんな自分にガッカリしている。

本塁打を打てなくなった野球選手、ボールが蹴れなくなったサッカー選手みたいで
『もう、いい潮時かな』
という気持ちが、どんどん強くなってきているのも本音。
元々、長くて2~3年と思っていて、引き受けた仕事だったという事もある。

ただここへ来て、去年から悪戦苦闘して半年間もかけて作ったオリジナルの装置を
下期に納入する話が再浮上している。
キャンセルと言われて、去年は丸々その費用が赤字になってしまった。
でも、その納入が実現すれば、その売上げ数百万円が今年度利益になる。
その納入には、たぶん僕が行かないと駄目だろうし・・・・
そうなると、10月以降まで居無いとならない・・・という事になる。

あと一か月、定期の期限が残っているのでその間に考えようと思う。

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明治生まれは格好いい(その3:『嫌な事は時間と共に消え、良い思い出だけが残る』)

2017年07月30日 | ジジイの呟き

明治生まれの祖父母の話は、『恐怖の夕食』『恐怖の金曜日』の外にも、
面倒くさくて、頭に来る話がきりがないほど沢山ある。
ただ、爺さんも婆さんも結局のところ、僕を可愛がってくれた。


祖父は事あるごとに僕を連れ出して、仕事を手伝わせては、
銀座や上野、神田界隈の美味しい食べ物の店へ連れて行ってくれた。
明治の人間らしく、かの石原元都知事と同じように、中国や韓国を『三国人』と称し、
格下の人間という見方をしていて、どこかで蔑んだ目で見て居た。


そのくせ、『中国人の喰い物』とケチばかりつけて居た『ラーメン』は
鶏ガラのアッサリ醤油味で、今時のラーメンのようなきつい香りの無い、
いわゆる『東京風ラーメン』の店を知っていて、その店だけは通っていた。
いつだったか、その店に連れて行かれた時に
『爺さん、ラーメンは喰い物じゃ無いって言っていなかった?』
って訊いたら
『美味いものは食べる』と答える。
『それなら最初から不味いラーメンは食べないって言えばいいだろう…』
なんて、僕もブツブツ言いながら御馳走になったのを思い出す。


自分が気に入らない事は一切しない、気に入らない事が有れば怒る、
そんな頑固な爺さんが、若い僕には鬱陶しかったのですね。


婆さんも似たような人で、銀座、日本橋でしか買い物をしない。
贈答品は三越の包装紙で無ければ、恥ずかしいと言うし・・・・
お中元、お歳暮のシーズンになると、三越まで連れて行くのが僕の役目だった。


でも、この婆ちゃんもなかなか粋な婆ちゃんで、凛とした態度で
背筋をいつもピンと伸ばして、着物で生活する人だった。
その婆ちゃんをデパートに連れて行くと、必ず何か買ってくれた。
それも安物じゃないブランド品。
ついこの間まで30年間着続けた登山用のネルシャツも、一着数万円する代物だった。


安物を買わず、良いものを長い間使う・・・・
明治の人は、そういうところがありましたね。


二人とも、生きて居る時は大嫌いな人間だったけれど、亡くなって時間が経つと
嫌だった部分は殆ど思い出せない。
思い出したとしても、笑い話になるような話。


人間の関わりは、良い事ばかりではない、嫌なことも沢山ある。
でも、嫌な事は時間と共に消えて行き、良い思い出だけが残る。
別れた恋人も同じで、年月が経つと良い思い出しか出て来ない。


血のつながりがあれば、それはもっと顕著なのでしょう。
自分の家族にも、ずいぶん嫌な思いをさせて来た気がするけれど
娘たちが大きくなって、僕の事を思い出した時に、そんな風に感じてくれるのかな?


『最近、爺さんに似て来た』
と言われ、自分でも自覚症状が有るのだけれど、爺さんみたいに
格好良く、素敵な人間になれて居るのか?
こればかりは、僕が死んで居なくなってからしか解らないのでしょうね。


 

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明治生まれは格好いい(その2:『恐怖の金曜日』)

2017年07月29日 | ジジイの呟き

昨日は『ハゲを増す会』の臨時総会。
6人の予定が自己管理能力のないスパイ2号の脱落で、
主賓のハゲ、スパイ1号、デラックス、小僧に僕の5人になってしまいましたが、
ビールの飲み放題2時間半のコースを満喫。


今日は僕の仕事での奮闘や、苦労している話を聞いて、皆が大笑い。
話を聞いているとまるで『スネークマンショウ』の話みたいだと…

そう、僕の感じている『笑うしかない』みたいな部分を感じたのかな?
僕が感じている虚無感はきっとそういう部分なのでしょう。
ビールの他にハイボールも飲んだりして、飲み放題を堪能してきました。


今日は珍しく、1次会で終了。
それもそのはず、奴等は明日から9連休の夏季休暇に入るのです。
ちょっと飲みすぎて、帰宅するのがやっと・・・・
帰ったら、シャワーを浴びる気力も湧かず、布団を広げてゴロン…
トイレに行くのも面倒で、このままじゃ寝小便しそうだなぁ…
なんて思いながら『恐怖の金曜日』の事を思い出した。


そう、僕の爺さんの話の中で、一番おぞましい記憶。


爺さんは明治生まれで、大酒飲み。
金曜日になると、築地本願寺の講和を聴いて帰りに飲んで帰ってくる。
都内の美人女将が居る店を幾つも知っていて、帰りに飲んでくるのです。


散々飲んで、荻窪駅までは自力で帰って来るのは良いのだけれど、
駅に着いた途端に、力尽きるのか?
週末になると荻窪の駅長さんから
『お爺さんが駅長室でお待ちになっていますよ』
という電話がかかってくる。
この時間に家にいると悲劇。


いつだったか、姉貴と二人で迎えに行った事があって、
タクシーを使えばいいのに、爺さんは勿体ないからと拒否する。
その癖、自分では歩けないから結果的に僕が背負うことになる。
駅から1.2㎞の道のりを、80㎏もあろう太った酔っ払いを背負って帰る。


酔っ払っているから当然、しがみ付く力が無いから、普通にしてたらずり落ちる。
それを姉貴が後ろで背中を支えて、何とか家までたどり着くのだが
これがとてつもなくシンドイ時間だった。


それだけならともかく、背負っている間に背中に異様な感触。
そう、背中で小便をしてしまい僕の背中からズボンまで濡れていたのです。
『ジジイ、てめぇ小便漏らしてるんじゃねぇぞ!』と言ったところで後の祭り。
『あー、すっきりした』とは爺さんの言葉。
そりゃスッキリしただろうよ・・・・


家に着いたら、靴を脱がせるのだけれど靴の中は小便だらけ・・・・
脱いだ靴からジャ~って、言う感じでオシッコが流れる。
その上、びしょ濡れの靴下を脱がせて風呂場まで連れて行き
背中を流して、寝間着を着せて、また2階まで担いで上がる。
その間に、お袋や姉貴は爺さんが歩いた後の小便だらけの廊下を雑巾掛けする。
こんな事は我々にしたら日常茶飯事になってしまい大した事じゃなかったけれど、
これがひと月に1回はあるのだから・・・・・。
こんな家族、今では考えられないでしょう?

こんなとんでもない爺さんが、86歳まで元気に生きて居た。
その頃は『恐怖の金曜日』が来るたびに、『ジジイ、早く死なねぇかなぁ…』
なんて思ていたけれど、今となっては、そんな爺さんの姿が可愛く思う。


祖父が亡くなった日は、1時間前まで2階で『おーい』と怒鳴っていた。
声がしなくなったので、気になって僕が2階へ様子見に行ったら布団の上で冷たくなっていた。
『爺ちゃん、死んでるよ』と僕が1階へ降りて伝えると、
『あれま、さっきまで怒鳴ってたのにねぇ・・・』とは、祖母の言葉。
誰の手を煩わすことなく、亡くなった祖父は大したものだと思ったけれど、
それにジタバタしない祖母の姿も、今になって思うと肝が座っていて凄かった。


嫌われ者で、面倒くさい。
けれど、何故か皆から慕われて・・・・
明治生まれの人間は、良くも悪くも、やる事が豪快だった。
そして迷惑がかかろうが、自分のスタイルを崩さない。
明治生まれの祖父母ともに、そういう人だった。
なんか格好いい爺さん、婆さんだったなぁ・・・・って思う。


僕もそれに近いのかなぁ?
最近、その祖父に似て来たって言われるけれど、実はちょっと嬉しいのです。

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明治生まれは格好いい(その1:『恐怖の夕食』)

2017年07月28日 | ジジイの呟き

明治維新以降、日本には格好いい『男』が沢山いた。
それは坂本竜馬など、大河ドラマに出てくる偉人ばかりではない。
明治生まれの男は、良くも悪くも生き様や考え方に『芯』みたいなものがあって、
一般人だった僕の祖父も、どこか頑固で堅い『芯』みたいなものがあった気がする。


昨日書いたとおり、僕は物凄い長髪だった。
さぞかし、爺さんは鬱陶しく感じていただろうし、今となっては僕もそう思う(笑)
この歳になって、爺さんに言われてムカついていた事の全てが、
まともな事だったのだ、と思うようになったあ・・・。


ただね、『ほら、お前がまともじゃ無いんだよ』と、誰かに言われるのには抵抗がある。
若い頃には若いなりの感性や考え方がある。
『周りが皆そうだから』『〇〇に言われたから』みたいに、
何の主義主張も無い連中とは一緒にして欲しく無いですね。


結果としてそう思う部分が多いというだけで、だからこそ若い頃は冒険や無茶、
反発をした人間の方が、良い大人になると思っている。


さて、本題。
僕と祖父の話でしたね。

昨日書いたとおり、僕と祖父のバトルが頻繁にあるため、
我が家には『恐怖の〇〇』と云う事が沢山あった。


その一つが晩御飯の時間。
我が家は、祖父母に両親、兄、姉、僕、弟の4人兄弟の8人家族の上に、
昔さながらの典型的な日本の『男尊女卑』の家庭。
おふくろや姉がお茶を入れるのは当たり前、テレビのチャンネル替えも女の仕事だった。

6歳上の兄は、僕が高校に入学した時には商船大の寮に入っていたので、
祖父、親父の次の男は僕だった。
あろうことに、食事のときは爺さんが真ん中で、親父、僕、弟と言う序列で
長いテーブルに横並びに座り、向かいには婆さんおふくろ、姉と並ぶというパターン。
親父が居る時は爺さんも僕も大人しかったが、親父の帰宅が遅い時は、
当然僕が爺さんの横に座ることになった。

この時が家族にとって『恐怖の夕食』。
例によって30cmもあろうかという長い竹の箸を使う祖父が、
僕の所作が悪いと、その長い箸で剣道の小手みたいに思い切り叩く。
『痛えな・・・』
というと、爺さんは無言で何事も無かったかのような顔。
そして再び叩かれると
『じじい、聞こえねぇのか?痛えんだよ・・・』
と僕が声を上げる。
『貴様の行儀が悪い』・・・・ぴしっ!
これで僕がキレて
『じじい、殺すぞ・・・』
となって、女どもは僕がテーブルをひっくり返すのを恐れて、避難の準備をする。
その間、横に座る弟は、何事も無いかのように黙々と食事を続ける・・・・・大物でした。
食事ひとつでも、親父が居ないと毎回こんな感じ。

でも今、ボサボサの髪の毛をした男が、横で肘を撞きながら食事をしていたら、
爺さんと同じようにしているような気がします。

食べる時に咀嚼音を出さない事・・・・これは品が無いうえに、他人が不快になる。
大皿に盛られた食べ物をあれこれ探る迷い箸はご法度・・・・これも下品で、はしたない行為。
出された食べ物は残さない。残すことは、作った人に失礼。
食事の最後にはお茶で茶碗に着いた飯粒を綺麗に取って終わる事・・・・
これは流石に外ではあまりやりませんが、元々は箱膳などのお坊さんの作法だとか。

お蔭で僕は、自宅でこそ爺さんにボコボコにされていましたが、
外へ出れば、食事の仕方も恥ずかしくない食べ方が出来るようになっていた。

躾に厳しい爺さんでしたが、意外なことに僕は一番可愛がられていた。
面倒なジジイだけど、どこへ行くにも連れて行かれた。
続きはまた明日、書きましょう。

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祖父に、だんだん似てきた

2017年07月27日 | ジジイの呟き

世の中には親が子供に模範を示さない、自分勝手な人間が結構多い。
こんな親に限って『モンスターペアレンツ』だったりする。


今朝、電車に乗る時の事。
整列乗車で、みんな並んで待っているのに、ドアが開くと同時に、
年寄り(僕ではありません)を押しのけて、優先席に自分の子供を座らせる母親がいた。
 それを見た僕は、思わず
『どういう育て方してるんだ?』と、怒鳴ってしまった。
まさに親が子供に模範を示さない典型的な例でしたが、
どっこい、子供も親もしゃぁしゃぁとしてる。
怒ったり、叱責したところで他人の言葉には耳を貸さない。
まさに『蛙の面に小便』ですね。


僕が子供の頃、祖父と出かけた時に、祖父のために席を取ろうとして
同じような事をした時に、電車の中だというのに、祖父から大声で
『貴様!何処の子供だ?』
って大勢の人の前で、 厳しく叱られて恥ずかしかったけどなあ••••。


僕には20代まで、父が明治生まれの祖父母を面倒を看るために同居して居た。
明治生まれの祖父は、若かりし頃に第一次世界大戦で戦艦『伊吹』に乗っていて、
戦争後も日本サルベージで働く、船乗りだった。


対して僕は戦後生まれで、ノンポリ、パーマがかかった髪の毛を、
背中まで伸ばしていた、ヒッピーまがいの風貌のクソガキだった。、
そんな僕にとって明治生まれの爺さんは、天敵。


『学生の分際で…』を前置きに、友達との電話も、夜遅く帰るのもダメ。
昔の電話だから、1階と2階にある電話が一つの回線になっていて、
爺さんはいつも、僕の電話の盗聴をしては、ちょっと長くなると
『貴様ら、いつまでくだらない話をしている!』
と横やりを入れたりするから、友達が電話をかけて来なくなったり、
もちろんガールフレンドとは外の公衆電話でしか話せなかった。


そんな爺さんは、とにかく厄介な存在だった。


毎日、全員揃っての食事の時間は、僕と爺さんの対決の場だった。
茶碗を持たずに食べれば『犬喰い』と言って、長~い箸で僕の手を叩く。
ラーメンや蕎麦でさえ、丼を持って食べるように言われ、その癖は今でも直らない。


飯を食っている最中に、
『寝て居る間に、その鬱陶しい長~い髪の毛を丸坊主にしてやる』
なんて言うものだから、
『じじい、やってみろ!殺すぞ・・・・』
なんて言い争いになって、食事の時間が家族にとって恐怖の時間になったり・・・・


最近、親戚兄弟から『やる事、なす事すべて爺さんに似て来た』と言われる。
他人に怒鳴ったり、たしかにそうかも知れないなぁ・・・・
そんな爺さんと僕の関わりの話は、今思い出すと意外と面白いので、
その話を聞いた友人に僕の祖父のファンがいたり・・・・


明日以降、そんな話を書きましょう。

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駄目だと思った瞬間に可能性は無くなる。

2017年07月26日 | ジジイの呟き

実は昨日、今日と電気回路の修理にかかりっきりだった。
7月10日のブログ
自分は電気設計技術者だったんだ・・・・と思い出させてもらった1日』に
電子回路の誤動作についてちょっと書いたと思うけれど、
今回も似たような誤動作だった。


同じ改造を施して、直ると思っていたけれど甘かった。
パネルにLOCAL/REMOTEという切り替えスイッチがあって、
これを押すたびに、電子回路が動いてパネルでのマニュアル制御と
外部からの遠隔操作に切り替わるようになっていた。


前出の記事に書いたフリップフロップの初期設定は上手く行く。
ところがスイッチを押したときに、切り替わったり切り替わらなかったり・・・・
ICの動きがおかしいので、ICを交換してみたけれど結果は変わらず。


個々のICの動作を確認しても、おかしいところが見当たらない。
それで視点を変えて、スイッチを疑ってみた。
動きがちょっとギクシャクしているので交換したがこれも効果なし。


回路図を何度も見直してみたが、何所にも悪いところが見当たらない。
でも、誤動作するのだから何処かがおかしいはず・・・・


誰も使わない2CHの古いオシロスコープがあったのだけれど、
1チャンネルは壊れていた。
1つのチャンネルで、信号を当たってみたら、髭のようなノイズが一瞬見えた。
今時のストレージオシロなら、そのノイズをキャッチ出来るのだけれど
どう見ても30年以上も前の、アナログオシロ。
それでも、一瞬のノイズを見つけるのは、前の会社で培ったもの。


それで髭状のノイズが見えた時と、誤動作の出るタイミングを見たら
ピッタリと一致して、最初のICの出力でノイズが出ていることが判った。


でも、直接の原因はICでは無かった。
ICの入力部分にノイズ対策用に付けたとみられるの電解コンデンサの容量抜け。
そのせいで、逆にその部分からノイズが出やすくなっていた。
そのコンデンサをセラミック製のコンデンサに交換して、
2日間向き合っていた不可解な誤動作が、やっと治った。
『修理不能』とお客様に言えば、2日間も奮闘する必要も無かったのですけれど。


まぁ、粘り勝ち・・・・ってところでしょうかね?
簡単な回路だったから『俺も焼きが回ったなぁ・・・・』と思っていた。
実際、今回は僕の能力不足が原因でしたけれど・・・・。
でも『頑張れば何とかなる』と言う気持ちがまだ何処かにあった。


何事もそう・・・・
駄目だと思った瞬間に可能性は無くなる。
いまだにこの気持ちだけは忘れないようにしています。

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動き始めた『プロジェクト』

2017年07月25日 | Weblog

昨日の晩に『東北復興プロジェクト・The North Journey』
facebook:THE NORTH JOURNEY
ブログ:The North Journey
の主宰者であり、市川真間にあるライブハウス『アルマナックハウス』のオーナー、
鈴木輝雄氏から電話があった。

実は去年に続いて、今年も『The North Journey』に参加するつもりでは居るのだけれど
今までは相方と二人の『Charlie&UG』というデュオで参加していたものの、
毎年のように『自分の中での違和感』を感じていたのです。

その『違和感』というのは、東北まで出かけて東京の人間が楽しんで
地元の人たちは、ほとんど興味を示さなかった事。
それでも、東北に目を向けて、地元にお金を落とし、わずかながらも寄付をして
何もしないで居るよりは、よほど素晴らしいとは思っていた。

でも『自分の中での違和感』はちょっと違う。
震災が起きた年の1月下旬に、僕の母親がこの世を去った。
ずっと面倒を看てきたけれど、結局は一人暮らしのままだった。
実家から離れるのを嫌がったので、僕が近くに引っ越すしかなく、
そういう物件も見つからないまま、時間が過ぎてしまった。

亡くなる3か月前に、豪州から姉貴が帰国して看病してくれたので
寂しい思いをさせながらの最後ではなかった。
母が亡くなって6年になると言うのに、今でも何処かに後悔みたいなものが
僕の心の中に残っている。

そしてその1か月半後に起きた東北大震災。
被災して家を失ったお年寄りが、仮設住宅に移り住んで生活している姿を見て
僕は何とも言えない気持ちになった。

それから東北へ行くたびに、そういうお年寄りに何かをしてあげたい・・・・
そう思っていたのですが、なかなかきっかけが掴めなかった。

そんな中、今年の劇団公演で、劇団の年寄りたちのエネルギーや
彼らにしか伝えられないメッセージを、強く感じた。
そう感じていたのは、僕だけじゃなく音楽担当であり、音楽療法士でもある
大塚彩子先生も、同じだった。

その先生が企画したプロジェクト『今が最高!』に参加して、CDの製作にはじまり
プロモーションビデオを作った時点で、僕の頭の中で『これだ!』と言うものが浮かんできた。

大塚先生の承諾を得て、そのダンスを大船渡のバアチャンたちに教えて
ロックの演奏に合わせて、体を動かして元気になってもらおうと・・・・

早速、鈴木氏に相談して『お前ひとりで企画してやるならOK』と承諾を得て、
先週はその下準備で東北まで出かけてきたというわけです。

題して『谷中プロジェクト』。
メイン会場での時間を貰って、地元のバンドの協力を得て、
仮設住宅の世話人に協力してもらって、バアチャン達を集める。

今月末に再び東北へ行き、打ち合わせを兼ねてライブを見てくる。
9月、10月にも一回ずつ出向く予定。
上手く行かなくても構わない。
失うものなんか最初からないのだから…

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失うものが無い者 VS 保身の連中

2017年07月24日 | ジジイの呟き

今日は朝7時に起きて、ゴミ出しをした後にもう一度寝てしまい、
気が付いたらすでに11時半になっていた。
それから出かけても事務所に着くのは1時過ぎ、
今日は夜7時から、東京都サッカー協会主催の『生涯スポーツ大会』の
監督会議があって、僕は昭島市の代表として出席することになっていたので
夕方には退社しなければならず、仕事を休むことに決めた。
仕事は僕が居なくても進められるはずだからね。


そんなわけで、午後は洗濯を2回して、水遊びを兼ねて車の洗車。
先だって出かけた岩手の帰りに、ヘッドライトにむかってくる
虫のぶつかった後がガラスにこびりついていて、落とすのが大変だった。
それでも、ビショビショになりながら、洗車で水遊び。
暑さも忘れて、丁度良かったですね。


それからシャワーを浴びて、夕方6時前に出かけるまで、
テレビを点けて、国会の予算委員会中継を見ていた。


こちらは加計学園の問題での、質疑応答。
見ていて『記憶にない』『記録が残っていない』の答弁が多い事・・・・。
僕が今言っている会社で、一番うるさく言っているのは
『何でも記録に残せ』と言う事です。
顧客と口約束で仕事をして、最後に値切られたり、キャンセルされたり・・・・
相手を信用して、騙されたり、トボけられたり・・・・


小さな町工場でも、こんな指導をしていると言うのに
国を動かしている機関が『記録を捨てた』なんて、考えられない。
こういうのは都合悪い事を隠蔽する時に使う手です。


挙句の果てには、官邸へ出入りした人間の記録も残っていないとか。
おいおい、日本のセキュリティーはどうなっているんだよ?
こういうのは、誰が考えても嘘・・・・・。


見ていてハッキリしているのは『どちらかが嘘をついている』と言う事。
元事務次官の前川氏と、政府の攻防っていう感じですが、
失うものが無い前川氏に対して、自らの立場を危うくしたくない、保身の連中、
と言ってもいいでしょう。
前者はハッキリと物を言う、後者は『記憶にない』『覚えていない』の連発。
2年前に会った人の事を全く覚えていないなんて、そんな方が政治を担うの?


どう見ても、政府側は嘘を言っているようにしか見えないけどね。


まぁ、民進党や野党は不正を追及するのは良いけれど、
その先に何を目指してるんだろう?


そもそもこの問題、忖度があったとしても何処かに不正があるの?
政治なんて忖度の塊でしょうが・・・・
無いのだとしたら、安倍政権のイメージダウンしかないんじゃないの?
たとえ安倍総理大臣を辞任させることが出来たとしても、
民進党なんかに国を任せる国民なんか、まず居ないでしょう。

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先人の知恵・『関東流』と『紀州流』の治水

2017年07月23日 | Weblog

今日は久しぶりに、最高気温が30度以下の一日。

それでも、秋田県では大雨に見舞われて雄物川が氾濫。
今年は九州の豪雨に始まって、先週の愛知県地方の集中豪雨。
今回は東北地方と、水害の多い夏になりそうです。
川が氾濫するたびに被災者がでて、何とも痛ましい。

日本の国土は欧米に比べると、水の量が非常に多い。
古くから水をいかにコントロールするのか?
日本の歴史は『治水』と共にあったと言っても過言じゃないでしょう。

今の会社の本社がある山梨県は、水害とは無縁の土地と言うイメージがある。
それは、かの武田信玄が『治水』と言う事に重きを置いていたからだと聞く。
実際に今でも『信玄堤』と呼ばれる堤防があって、
川の増水があっても、その堤防によって反乱を防いできたと言う。

実は東京は、かつて利根川が流れ込んでいた。
今の利根川は、徳川家康が人工的に銚子方向に川の流れを変えたと聞く。
東京の江戸川も、荒川も人工的に流れを変えたもの。
元々は都心を流れる今の隅田川が荒川だった。

徳川家康は、城下が水害に見舞われないように、川の流れを変えた。
今の江戸川区のあたりは、江戸に米を供給するための農業地帯で
農業用水確保の目的も兼ねて、川の流れを変えたらしい。
そしてこの川の両側は『関東流』もしくは『伊奈流』と呼ばれる治水が施された。

地図を見ると判るのだが、この『関東流』には乗越提霞提と言われる場所があり、
ある程度の増水があるとジンワリと溢れさせて、田んぼなどに流れ込むようにしていた。
その為に、所々で土手の切れ目があったりする。
先人の知恵と言うのは、本当にすごいなと思います。

そう言えば数年前に、氾濫して被害を出した鬼怒川も、
元々は増水した時に水を逃がす方向があったそうだ。
それがいつの間にか、そういう場所にも住宅地が出来てしまった。
東京もその例外ではないようです。
『関東流(伊奈流)』は自然の流れを上手に受け入れる技術で、
現在でいう自然型工法に近いものですが、水に浸かる土地も多く、
江戸の洪水被害が増えたり、乱流地帯も多く残るなど、
家康が考え居た新田開発には限界があったようです。

その『関東流』に対して8代将軍の吉宗が施した治水方式が『紀州流』だそうです。
こちらは『関東流』とは全く逆に、水の流れを完全にコントロールする方法。
乗越提や霞提を取り払い、それまで蛇行していた河川を、
強固な堤防や水制工(水の勢いを止める構造物)で固定し、
連続提によって直線化し、遊水池や河川の乱流地帯は必要なくなり、
広大な新田が誕生することになったそうです。

まぁ、これ以上は僕の頭には無いので調べてください(笑)

最近の東京は、洪水対策が進み、都心で浸水することが少なくなった。
江戸時代の徳川家康、吉宗ほど派手ではないですが、
地下に水を逃がす巨大なプールを作って、神田川は氾濫しなくなった。
これを進めたのが、石原都知事の時代です。
そう言う意味では、石原都知事はのちに歴史に名を残すのでしょうかね?

とは言え、各地で起きる水害の被災者が気の毒で仕方がない。
少額ではありますが、被災者支援の募金に寄付してきました。

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練習不足の結果はこんなもの

2017年07月22日 | 中高年サッカー

今日は久しぶりに、夜7時からナイターで練習試合。
午前中は朝7時に起きて、ゴミを出した後に窓を開けて、
心地良い風の揺らぎを感じながらの2度寝。
昼近くまで、心行くまで寝た後はおもむろに起きて出かける支度。


12時半に家を出て人に会うため、駒込まで出かけた。
特にお腹が空いていない時は食べない僕。
朝御飯は食べずに出かけて、駒込へ着いた頃にようやく空腹になって、
駅の横にある立ち食いの『富士そば』で冷やし蕎麦で空腹を満たした。


駒込まで出向いたのは、『メルカリ』で見つけた物を受け取るため。
不二家創業100年記念の『ペコちゃん人形』。
頭が動く首振りの人形ですが、子供の頃から馴染のあるペコちゃん。

他のオークションでも見かけたのだけれど、『メルカリ』の良いところは
出品者とやり取りをして、直接手渡しが出来る所。
譲ってくれた女性の旦那様が、持ってきてくれて受け取った。
女性は僕の風貌を見て、警戒したのでしょう…(笑)
旦那様は、優しそうな良い御仁でこちらも安心しました。


そして帰宅後は、夕方5時半までノンビリと過ごして、
7時に集合になっている練習試合に出かけた。
今日の練習試合の為に、昨日、一昨日と少しだけ体を動かした。


試合の相手はうちのチームのゲームメーカー郁也の地元チーム。
そのせいもあって、我々は僕を入れて12人。
しかも、怪我から明けたばかりのメンバーが加わっての事なので、
一人はメンバーの息子を加えて、やっと12人が揃った。
この息子は、メンバーがまだ20代後半に結婚して生まれた子で、
その当時、試合に連れてきていた赤ん坊が、いつの間にか高校生になっていた。


さて、試合の前半は僕がGK。
何度か危ない場面は有ったけど、何とか無失点でハーフタイム。

後半はもう一人のロートルMとのツートップ。
ところが、この爺さんコンビが思いの外機能して、最初の10分は良い攻撃をした。
僕も何度かシュートを撃ったけれど、練習不足でジャストミートしない。


後半途中で、今日のゲームメイカーであるK玉が先制点を挙げた。
その後も攻め続けて、後半終了直前に左サイドから絶好のボールが僕に来た。
僕が得意とするボレーシュートの絶好球。
ゴールのコースも見えていた。
あとはそのコースに向けて、ボールを蹴り込むだけ・・・・
2年前にチームメイトが開いてくれた僕の『還暦記念・谷中杯』で
決めたボレーシュートの再現・・・・のはずだった。


しかし、あまりもの絶好球で体にちょっと力が入っちゃった。
結果は右足のアウトに少しかかって、ゴールマウスを外してしまった。
あぁぁぁぁぁぁ・・・・
練習不足の結果はこんなものです。


試合は時間が過ぎて、もうワンプレイと言うはずが、
何故か10分延長。負けず嫌いの郁也の策略です(笑)
結局、この10分で相手に得点を奪われ引き分けに終わった。


まぁ、練習試合だから結果としてこれで良かったのかも?


今日は自分としても、予想外に走れたしね。
でも、あの外したボレーシュート・・・・・
夢に出て来そうなくらい、悔しかったですね。
また練習して、今度こそ決めてやりたいです。

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いまや東京は『東京以外の人間』の文化で溢れかえっている

2017年07月21日 | Weblog

今週は月曜日が休日だったこともあって、1週間が早かった。
月曜日は岩手に居た。
東京にいると、東北大震災の事はどんどん忘れられて行くような気になる。
そう言う意味でも、今回の旅行は有意義だったかな?

東京オリンピックも、東京が盛り上がっている感じはしない。
たった2週間の大会のために、競技場建設に数千億円かける。
復興オリンピックならば、被災地で開催すればいいのに…
そうすれば、復興が加速して行くのになぁ…なんて思った。

正直な気持ち、これ以上東京に人が集まってどうなるのか?
多様性とかいって、外国人が増え続けることは仕方がないけれど、
東京の文化なんてものが、どんどん無くなって行って
例を挙げれば、ラーメンに豚骨や油ぎったものが流行って
東京の鶏がら醤油味のあっさり系のラーメンは滅多にお目にかからない。
そんな風に、いまや東京は『東京以外の人間』の文化で溢れかえっている。
本音を言わせてもらえば『もう東京に来るな』と言いたいですね。

さて、そんな今週は火曜日からまたいつもの仕事。
昨日に続いてサッカーをやってから、仕事に行ったのは午後1時半。
今の仕事で僕はアドバイスするだけなので、ずっといる必要もない。

ところが、今の人員では進捗や、日程の管理が出来ない。
来週から出張で人が減るのを、どうしようか?
色々と考えながら、人員の割り当てを考える。
残業の指示も、僕が出さないと青天井になっちゃうし…
これ、僕のやる仕事じゃないのだけれどね。

まぁ、そんな事はどうでも良い。
こんな僕でも、少しは手助けになっているみたいだし、
そろそろ、潮時かな?・・・・
と思い始めて、だいぶ経つけれども今のままでは
今の事業所が自力で稼ぎ、利益を出せるようにするには
まず社員の意識を変えないと、会社自体も変わって行かない。
そんな訳でもう少し、僕が手を貸さないといけないなって気がします。

しかし、今週は週末が来るのが早く感じた。
何だか、時間が過ぎるスピードが上がって居る感じ。
自分の思い描いていた定年後の生活が、どんどん後送りになって
気が付いたら、そんな元気も無くなって居そうなのが怖いですね。

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久しぶりに昼のサッカー

2017年07月20日 | Weblog

今週末は、ナイターで久しぶりに練習試合がある。

そんなわけで、今日は前の会社で昼のサッカーに参加しようと11時に自宅を出た。
ところが、到着寸前で訳の判らない渋滞に遭遇して、
普段なら5分もかからない距離を20分以上も費やしてしまい、12時15分に到着。
すでにグラウンドではミニゲームが始まっていて、
急いで着替えてグラウンドに登場したものの、
ゲームに参加出来たのは15分足らず。
ひと汗かくくらいはできたけれど、何か物足りなかった。

それでもやらないよりは、マシ。
仲間も意識してパスを回してくれたのだけれど、
走れない上にボールが足につかず、ミスばかり・・・・
練習を継続するってことの大事さを身を持って感じますね。

でも、今日グラウンドで思った事。
『暑いけれど、涼しい・・・・』
今年の梅雨はほぼ空梅雨で、空気も乾燥していたお蔭で
風が吹くと爽やかな風で、車の運転もエアコン要らず。
窓を開けて走っている方が気持ち良いくらいでした。

そのせいかもしれないけれど、グラウンドの上で直射日光が
きついのは例年と同じだけれど、ちょっと風があって
サッカーをやっていても『暑い』と感じなかった。

短い時間だったけれど、去年のような息苦しさを感じず、
そう言う意味では、サッカーをやるには悪い環境じゃなかった。
勿論、油断すると脱水にはなりますけれど・・・・

今年の7月は、夕方になると涼しくなるので、自宅に戻っても
エアコンは寝る前に窓を閉めた時くらいで、寝るまでは
窓を開けて扇風機で十分なくらい、部屋の中も涼しい感じ。

サッカーの後に仕事へ行くのだけれど、今はそんなに忙しくない。
明日はもう少し早く早く出かけて、今日同様にサッカーをやってから
仕事へ出かける予定。

土曜日のナイターで、走れるかなぁ・・・・

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放射線量のごまかし

2017年07月19日 | Weblog

ひどいものだね

福島原発問題で、政府は年間被曝量基準を20mSvに上げた。
一般的に、外部被曝。呼吸、水、食料による内部被曝を合わせると
外部被曝の3~4倍が総被曝量と言われる。
子供が大人と同じ基準で大丈夫なのか?と、考えてしまう。

「チェルノブイリ事故時のソ連の避難基準には2段階あった。
 一つは公衆被曝の1mSv/年を超えると「移住権利」が発生する。
住民は移住するか否かを自分で選択します。
もう一つ5mSv/年を超える場合「移住義務」になり、強制的に移住せざるを得ない。

日本政府の避難基準は20mSv/年と、旧ソビエト連邦の基準より4倍も甘い。
過去10年ほどの間に放射線作業従事者で白血病に冒され、
それが労災認定された人の最低値というのが5.2mSv。
つまり正式に放射線が原因で白血病になったと国が認めた値が5.2mSvということで、
実際に明らかに放射線によって犠牲者が出たと明らかになってる値より
4倍も高い値を安全基準値にしているということなのです。

日本政府は放射線量からの外部被曝だけで計算しているが、
かつて、東京都は国(環境省)が示す毎時0.23μsvの算出根拠を公表した。
https://www.kankyo.metro.tokyo.jp/policy_others/radiation/view/men.html

0.23μsv/Hと言う値は、1年で2msvの積算値になる。
そもそも、普通の状態で年間2msvを浴びていると言うけれど、
その内訳はこの表にある通り

2.1msvのうち約25%は大気中のラドンなどによる被ばく、
15%は宇宙線、同じく大地放射線で残りの約半分は内部被ばくだ。

原発の事故で放出されるセシウムなどの放射性物質によって、
大気中もしくは大地放射線の量がかさ上げされるだけでなく、
浮遊物があればそれを吸い込んで体内に取り込まれ、内部被ばくと言うことになる。

最近、マスコミも原発事故の報道をしなくなってきた。
関連のニュースを探しても、メジャーな新聞からは殆ど拾えない。
本当の事は、得意の『隠蔽』なのでしょうかねぇ?

そんな疑問も手伝って、一昨日は常磐道のルートを通ってきたのだけれど、
こういう事を報道しなくて本当に良いのだろうか?

僕らのような老体は、生きたところであと20年でしょう。
でも小さな子供や僕の娘も、何事も無ければこの先半世紀は生きる。
起きてしまった事故は、今更言った所で始まらない。
でも、それ以降の事は隠していては国の将来に暗雲が立ち込める。

オリンピックを招致した時の安倍総理の言葉。
『汚染水はコントロール下にある』は世界中に放った真っ赤な嘘だった。
利権がらみで原発を再稼働させるため、審査機関も考えが甘い。
そんな政府の出す数値なんて、全く信用できません。

放射能に関する報道は、嘘だらけ・・・・
自分が生きている間の事しか考えない内閣総理大臣や政府の人間たち。

東北の帰りに通った仙台東部道路を通って、改めて放射能の事を考えさせられた。
この国の行く末は、どうなってしまうのかなぁ・・・・

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原発被害は誰の責任?

2017年07月18日 | Weblog

昨日は帰りにちょっと道を間違えて、釜石自動車道を
花巻方向へ向かってしまい、途中で気が付いてルート変更して、
北上市から北上江釣子(えずりこ)ICから東北道に乗ったので、
予定していた水沢ICより北へ15Kmほど距離的にロスをした程度で済んだ。

その後は順調にドライブして、最初の前沢SAでガソリン補給、丁度30Lでした。
前の日から走行距離が525Kmなので、17.5Km/Lの燃費。

1500ccのガソリン車としては、かなり良い燃費性能ですね。
僕は若い頃に、仲間から『お化けカローラ』と呼ばれる
27Km/L走るカローラに乗っていたので、この車は2代目かも知れません。

そんなこともあって満タンで東京まで500Kmの道のりは
十分に走れるので、ちょっと色気を出して帰りは少し回り道して
仙台から海岸線よりに走る『仙台東部道路』を経由して
常磐自動車道で東京まで帰る事にした。

と言うのも、原発被害の南相馬や浪江町のあたりを見てみたかったから…。

ところが、これは止めておけば良かった。
原発被害の深刻さを目の当たりにするのは、覚悟していたのだけれど
常磐道までの道のりは『放射能』が飛び交っている真っ只中だった。

南相馬のあたりから道路の両側に放射線線量計が設置されていた。
その数値は最初0.1~0.2μSV/H。

この量は僕にとってちょっとびっくりだった。
年間被ばく許容量とされている1mSV(シーベルト)を考えた時、
1mSVを時間単位の量に換算すると
1000μSV(1mSV)÷365日÷24時間≒0.12μSV/H
この値は僕の頭にインプットされていたからです。

つまりこの場所に居たら、普通に年間被ばく許容量になってしまう。
それから先へ進むと、その数値が少しずつ上がって行く。

浪江町あたりでこの線量計は3,1μSV/Hになった。

さっきの30倍です。

それに高速道路の周りには住宅地があるのに、人が住む気配がしない。
民家の屋根は瓦が落ちていたり、蔦が絡まって居たり・・・・

牧草地っだと思っていた場所は、全て田んぼの跡に雑草が生えて居たもの。
水たまりから池になってしまった場所も点在する。
この水には放射能が、しっかり溶け込んで居るのでしょうね。

高速道路の脇には、重機と黒い袋が並ぶ『除染ごみ』置き場。
それが至る所にあって、人の気配もない。

こんな場所に帰還して住ませようなんて、余程の阿呆が考える事。
もしくは『他人事』の人が、そんな事を言うのですね。

僕は仙台を超えた時から、窓を閉めて送風もFRESH(外気導入)を止めて
RECYCLE(内部循環)に切り替えて、エアコンを入れた。
車の中に放射性物質が入るのがいやだったから、
もしかして思ったより線量が高かった場合・・・・に備えてでした。
残念ながら、その予想は的中してしまいました。

被災地は支援さえすれば、その土地でもう一度やり直せる。
実際に被災者の方たちは、がんばって自らの力で復興し始めている。

でもね、ここは被災地ではない。
原発事故の『被害地』であり『被害者』なのです。
帰りたくても、帰る場所は人が住める場所じゃない・・・・
少なくとも僕は子供にこんな環境で生活してもらいたくない。

この責任は国にあるのでしょうかね?
それとも再稼働のために海水注入を躊躇った東京電力?
誰の責任でも『被害者』が自分の故郷を失った事は変わらない。

こんな惨状を見ても『原子力発電は安全』と言っている政府。
利権やら、政治がらみのお金のためならば、将来を犠牲にしても構わないのです。
申し訳ないけれど、もう2度と常磐道経由で東北へは行きません。

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東北への旅に出た目的は達成!

2017年07月17日 | Weblog

昨日の朝7時に東京を出て、約650kmを運転して,
目的地の大船渡に着いたのが9時間半後の夕方4時半。
この歳になって一人で運転するのは、正直言って疲れますね。

今日は住田と言うところの、バンドをやっている人に連絡したら
昼過ぎに会ってくれることになった。

朝はホテルの朝食バイキング。
宿泊料金に、朝食が含まれているらしいけれど、なかなかのもの。
朝食の後は、部屋に戻って荷物を鞄に詰めて10時前にチェックアウト。

昼過ぎまで時間があるので、三陸鉄道沿いに海岸線を走って
建築中の大堤防や、被災した地域の様子を見ながら、
綾里駅、恋し浜、甫嶺(ほれい)、三陸駅を巡って、
三陸自動車道に乗って、大船渡へ戻った。

大船渡から住田まで、大きな岩山の間を潜り抜けながら
車で20分くらいの距離だったかな?
世田米という地区の古い商店街の中にある、世田米公民館で
今回の目的地である『住田クラッチ』の話を訊く。
公民館は子供の溜まり場にもなっていて、良い感じ。



隣にあったレストランは、ランチタイムの家族連れで満席でした。
古い建を改修した公民館の軒下にはツバメの子供も居ました。

この『住田クラッチ』、蔵を改装して音響設備を入れて
地元の音楽愛好者が作る『音蔵(ねくら)』というサークルが
初心者から一緒になって音楽活動をしているらしく、
地元では有名なようで、今日会ったメンバーも公民館で
名前を言ったらすぐに判ったほどです。
まぁ、田舎だから人の繋がりも濃いのでしょう。

今回は、11月に開催する『The North Journey』で、
僕のステージのバックアップをお願いしに行ったと言う訳。
復興も進んできて、東京の人間が中心になってやっていたイベントも、
地元の人がもっとメインに立ってやって欲しいな・・・・って、
このイベントに参加した時から考えていた事。

それに今回はあのプロモーションビデオを撮った曲の、
『今が最高!』を引っ提げて、地元の爺ちゃん、婆ちゃんに
8ビートのロックンロールの振り付けに参加してもらう企画。
そういった企画を、主宰者の鈴木氏が承諾してくれたのです。

住田のHさんは、僕の企画に賛同してくれて仲間に声をかけるとのこと。
僕は演奏のクオリティは要求していない。
皆で一生懸命やる事で、聞いている人や観ている人に
何かが伝わればいいと思っている。
芝居の経験から、一生懸命やれば何かが伝わるのを実感してますからね。
思い立ったが吉日で出かけた今回の東北行き。
その目的は達成。
無計画な旅は、なかなか良い旅になりました。

目的の話を終えて、2時半に東北を出発。
東京に着いたのは10時。
走行距離1200㎞、ガソリンは1リットル当たり17㎞と良く走った。
帰りは東北道から常磐道に抜けて、原発被害地域を通り抜けたけれど
これについては色々と思う事があるので、明日以降に改めて書きましょう。

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