『やんちゃジジイ・ゆうちゃん』のイカすセカンドライフ

我儘で『やんちゃ』な爺さんの目標は、
周りに笑顔を振りまいて、楽しくセカンドライフを生きる事。

割に合わない・・・

2011年01月30日 | Weblog
何だか、この25年間、馬鹿みたいな人生に思えてきた。
割に合わないって言うのかなぁ・・・
見返りみたいなものを期待している訳じゃないんだけれど
親父が亡くなって、お袋や婆さんの面倒を見ながら、
僕が実家を引き継ぐって事になっていたんだけれど
時間が経つと、話が都合よく変って来るんだよな。

やっぱり、約束って書面にしないと駄目だな。
たとえそれが兄弟であってもね。
面倒だから、引き継ぐのやめようかと思ってたけれど
お袋が病気したりで、離れられなくなっちゃった。

それでも、男の僕にはお袋の最期の世話は出来ないから
姉貴が戻ってきて、一生懸命やってくれた。
しまいには『何もやってきていなかった』みたいに言われると
なんとも言えないほど空しくなっちゃった。

実家さえなければ、僕の人生はもっと違っていた。
僕の頭が古いのか?親の財産なんて長男が継げばいいと思っていた。
坂本龍馬だって、長男だったらあんな人生は送れなかった。
兄や姉に励まされ、自由奔放に生きて大きくなっていった。

若い頃からそんな龍馬に憧れていたから、
『自分も・・・・』という気持ちが、ずっと心にあった。
でも、兄貴が海外赴任、続いて姉貴が海外勤務から国際結婚。
僕は、いつの間にか日本に居て実家の様子を見ながらの生活になった。

それも、いつかここは自分の拠点になるんだって思ったから
面倒な事も、さほど気にしないでやってきた。
だから、今になって状況が変ったって言われてもネェ・・・・

割に合わない人生だって、思い始めて居る。
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ストイック?

2011年01月29日 | Weblog
今日は姉貴と珍しく口論になった。
お袋が亡くなって、今後の事を相談していたんたけど、
その時に、兄貴が海外へ出る前に、僕に何も相談もなく
『あとは宜しく!』みたいなやり方が気にいらないって、
僕の考えを言ったから。
兄貴の人生設計の邪魔をする気は更々無いけど、
兄貴が日本に居ない間の事を、兄貴なりに考えて伝えて欲しかった。
姉貴が怒ったのは、要は僕がストイックな考えをするから・・・・みたい。
でも、このニ十年間、海外にいる兄弟の分まで、
色々やってきたけど、それがまた数年続くのか?って
ただでさえ婆さんやお袋の事で、嫁さんとの仲が、
何と無くギクシャクしちゃったからね。
兄弟だから、一生つながるわけで、余計にそう思ったのかな?
だけど姉貴は
『ゆうちゃんはお兄さんに冷たい』
って言われて、ちょっとショックでした。

帰宅してメールをチェックしたら姉貴から
『なんであんなに怒ったのか判らない。ごめんなさい』
ってメッセージが着ていた。

かつて飲み仲間の神輿オヤジからも
『ストイック』って言われた事があるけれど、
やっぱり、筋が通っていないことに不満を感じる
僕の考え方に問題があるのかな?
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葬儀後二日目

2011年01月28日 | Weblog
今日は、母の納骨までに墓石に彫刻してもらう手続きのために
霊園まで出かける事になった。

学校が休みで家に居るだけの長女と一緒に2人で行く事にして、
弟が姉貴と娘2人を連れて現地で昼前に落ち合う約束。
案の定、長女はなかなか起きない。
10時半には家を出発する予定が、長女が蒲団から出たのが10時半。
結局、11時過ぎに出発になって中央高速道路で時間短縮。
なんとか45分で到着して、弟達と合流。

墓参りの前に、墓石の手続をした後に、霊園の管理事務所へ行き
墓の名義変更の手続の説明を受け、その後墓参り。
墓のある霊園内の山を少し登った処で、先に行っていた姉達と合流。
叔母の墓参りをしたんだけれど、一ヶ月に2度も墓へ来るのは初めて。
天気が良くて、風も無かったので良かった。

実家に戻る前に河辺にある蕎麦屋で、皆でわいわい言いながら食事。
こういう時間も、2週間後に姉と次女が帰国するので最後かな?
姉の長女は、明日からまたスキー場へ戻って、4月まで居るそうだ。

実家に戻って、弟は一休みして先に帰宅。
残った僕は、いずれは処分する実家にある家財道具や
大量の衣類の処分を姉と相談。
結局、実家を取り壊して後をどうするか?とか、実家の今後は
全部僕の判断でやる事にしたが、それが全部終わるまでに
少なくとも半年くらいはかかりそう。

当面の問題は、納骨までお袋の遺骨を、誰がどう面倒看るか?で
本来は兄貴の嫁さんのやることなのだけれど、
それも兄嫁が自分から言い出さないところを見ると
僕が実家に暫く住むか、自宅に位牌と遺骨を持ち帰ってやらないと、
置き去りにされてしまうので、お袋が可哀想。
何だかいつもこういった事で、僕が割を喰ってる気がしてならないけれど・・・
まぁ、お袋のことだから我慢できるけれどね・・・・

明日は、区役所で皆の戸籍謄本を取得しないといけないし
49日の納骨の出席者の確認と、その時に渡す手土産を手配しなくては
うかうかしてると、あっという間に納骨が来てしまうからね。
それにお香典のお返しも考えて、49日の納骨が終わったら
すぐに発送できるように手配しないといけないから大変。

でも、お袋が亡くなった日からずっと葬儀関係の事を
しっかりしている弟が分担して助けて来てくれたから、
ズボラな僕でもなんとかやって来れて、本当に助かった。
子供の頃から、いつも一緒で双子とまで言われ、お袋の入院していた時も、
いつも助けてくれて来た弟夫婦が居て、僕は幸せだと思う。
そういう意味でも、兄貴、姉貴、僕、弟と仲の良い4人の兄弟を
生んでくれたお袋に、改めてありがとうって、手を合わせた。

そうこうしている間に、あっと言う間に7時。
今日は自宅で夕食を取ると約束していたので、
葬儀のときに置いて帰ったテレビや靴、忘れ物の上着や、
帽子、靴下などを車に積み、帰宅した。
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一夜が明けて・・・

2011年01月27日 | Weblog
今日は昼前に弟と荻窪の実家に集合。
お袋が亡くなった後に、国民年金やら簡易保険の解約や墓地の名義変更などの
相続に関する書類に必要な証明書の数を確認。

昼過ぎから姉貴が、スカイプで授業をする事になっていたので、
弟は一足先に駅まで出かけて時間潰し。
駅で落ち合って、昼飯でも一緒に食べようと僕も後から駅に向かう。
途中、通夜に頼んだ寿司や、精進落しの会席料理の精算をして挨拶した後に
駅まで向かう途中に、姉貴から授業中止の連絡が入り、
駅で落ち合った弟と昼飯は中止にして、姉貴たちと一緒に食べようと
サンドイッチや調理パンをごっそり買って、実家へ戻った。

話をしながら、今日明日でやらなくてはいけない作業を確認。
僕は郵便局で、簡易保険の死亡保険金請求と郵便貯金の解約の際に
揃えなくてはならない書類を確認してきて、その後は49日の法要の予約。
墓石に刻むお袋の戒名などの相談を電話でしたところ
直接、墓地まで行かないと手続が出来ないとの事で翌日行く事になった。

3時過ぎに約束した葬儀屋さんとの精算。
地元の寿司屋など同様に、葬儀屋さんも思ったより安く終わってびっくり。

その後、今後の事を話し合っていてあっという間に5時。
姪が『雄二おじちゃんのトマト鍋が食べたい』というリクエストがあって
姪と2人で買い物に出かけた。
馴染みの精肉店で鶏肉を薄くしゃぶしゃぶ用にきってもらい、
店特製の鶏肉団子を一緒に買った後に、お菓子を沢山買って帰宅。

僕は30分ほどで、鍋の仕込みをして6時半には夕食。
弟は初めて食べる『トマト鍋』に、美味いの連発。
調子に乗った僕は、姉貴に
『だって、ゆうちゃんは料理の天才だもの・・・』
と言わせて、皆が大笑い。

でもね、姉貴が帰国してずっと面倒を看ていたのだけれど
その間に作った食事を、お袋は
『あんたが作った物は何でこんなに不味いんだ・・・』って
ずっと言い続けていたらしく、僕が行ったときに姉貴が
『ゆうちゃんが、作ってくれるってさ・・・』って言うと
『それなら食べる』といった事が、姉貴としてはショックだったと
そんな苦い思い出話も笑いながら話して、楽しい夕食だった。

9時になって弟が帰宅。
僕も帰るつもりが、姉貴と実家どうするか?といった、今後のことを話したり
お袋の事で、ずっと家族に向いていなかった自分の事や
今まで話したことが無かった僕の本音を聞いてもらった。

『結局、最後は姉貴が居てお袋は幸せな時間を過ごしたんだよ』って僕が言うと
姉貴は『ゆうちゃんが作った食べ物を楽しみにしていたんだからいいじゃない』
って言われて、何だか救われた気がして涙が浮かんだ。
あれやこれやで色々、話をしていたら12時を回っちゃった。
いくら話しても、時間が足りないくらい姉貴との話は尽きない。

姉が看病していた間に亡くなった叔母の墓参りをしていないので
翌日、弟が姉貴たちを拾って、僕は学校が休みに入った長女を連れて
墓石の手続で出かけるついでに、ドライブを兼ねて霊園まで出かける事になった。
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我家らしい通夜は,大騒ぎ

2011年01月25日 | Weblog
通夜が終わりました。
受験を控える次女は、僕の車で嫁さんと一緒に帰宅。
一方の長女は、卒業まで学校へは殆ど行かないので実家に残って、
従兄弟と我々大人と一緒に、お袋を弔うための線香を絶やさないように
寝ずの番に加わった。

でも、この夜は皆が待っていた『日本対韓国』のアジアカップ準決勝。
あらかじめ僕が持って行っていたテレビを受け付け用のテーブルに載せ
僕を始めとして娘、姉貴と姪、兄嫁と兄の長男に兄の長女、
その長女の旦那で作ったチームに参加している義理の甥、
サッカー好きの弟夫婦と長女、次女とその旦那と総勢13名。
兄嫁は鹿島に住んでいた関係でサッカー好き、娘は旦那の影響でサッカー好き、
加えて弟一家は熱狂的な鹿島ファン、弟の次女の旦那もサッカー狂。
そんなメンバーで観戦しているものだから、通夜の夜だというのに
みんなで試合の内容に一喜一憂。
2-1でリードして、日本が5バックなどと言う慣れないシステムで
守りに入ったところで、すかさず僕がみんなに、
『下手をすると点を取られて負けるかも』なんて言って
皆の顰蹙を買う最中、案の定失点して大きな溜息。

PK戦で、試合中にPKを外した本田圭介が最初に出てきたら
皆が『失敗しそうで嫌だ』と言うのを否定して、僕がまた
『今度は左上にドッカンシュートを入れるから大丈夫』
と言ったら、その通りになって大笑い。
意外だったのはGK川島が2本立て続けにシュートを止めたこと。
この間、我家は大騒ぎ。これで日本はほぼ勝利を手中にしたんだけれど
とにかく通夜とは思えない騒ぎで、燐家から苦情が出そうなほど盛り上がった。
いかにも笑いの中で葬儀をする我家の通夜らしい。

でも、こうやって親戚が集まるのはこれが最後。
今まではお袋が居たので、皆の共通の拠点となっていた。
『お袋に会いに行く』と言う、荻窪の実家に集まる理由があった。
今後は正月に集まるにしても、多分今までのようには行かず
集まる理由も勝手が変って、『誰かの家にお邪魔する』と言う乗りになるから、
多分、今までのようには集まらないだろう。

結婚してそれぞれが拠点を持っているわけだから、それは仕方がない事。
これから兄弟共通の拠点は、お墓という事になる。
これも仕方がない事で、世の中の家というのは皆、そうなのだろうと思う。

さて、あれやこれやでサッカーが終り、弟夫婦と姉貴と僕とで
これからの事を色々話し合った。
姉貴は日本に帰る際の拠点を失う訳で、その戸惑いを吐露する。
僕の今までやってきた事を批判する姉に、弟が弁護してくれたり、
結構シリアスな内容の話になって、時間が過ぎて行った。
その中に一人混じっていた長女が、大人の話を聞かない振りをしながら、
健気に一人で線香の火が消えないように、ずっと起きていてくれた。
そういう姿が、皆の気持ちをほぐしてくれて・・・・
ありがとうね・・・・

明日はいよいよ告別式。
お袋が火葬になるので、僕は嫌で、嫌で仕方が無い。
お袋の寝顔は、亡くなる寸前まで苦しんでいた時の形相とは、全く違って
今にも起きて来そうな穏やかな表情。
この顔を見れるのが今夜限りと言うのが辛い。
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葬儀の準備

2011年01月24日 | Weblog
今日は友引なので、葬儀は行わず通夜に向けて
弟と2人で家の中を片付けた。
葬儀って、意外と大変でやる事が沢山ある。
昨日のうちに、メールで会社に連絡。
部下からメールの返信が来て、会社の方は何とかなりそう。
元々、居ても居なくても大して変らない存在だから
むしろ僕が居ない方が、伸び伸びと仕事をしてくれるでしょう。

葬儀は一階をぶち抜いて、周り廊下で弔問客用の通路を作り
二階は二部屋を仕切る襖を外して、大きな部屋に模様替え。
葬儀屋さんに、座布団の貸し出しを頼んだら、
最近は斎場で葬儀を執り行うのが一般的で、貸し出し用の座布団など
持ち合わせが少なく、結局足りない分は兄弟が自宅から持ち寄る事に。

近所に葬儀の連絡の挨拶回り。
ここで皆、口を揃えて『えぇ、ご自宅でやるんですか?』
やっぱり、自宅で葬儀が出来るような家って少ないみたいです。

午後は死亡診断書を区役所に提出して、埋葬許可証をもらう。
これが無いと、斎場で火葬できないので必須項目。
葬儀が終わったら、年金の解除、介護解除の手続、障害者手帳の返還など
公的な手続をしなくてはならない。
そのほかは、銀行の解約や保険の申請が待っている。

葬儀屋から貰った、通夜に出す料理のパンフレットが気に入らないので
近所で馴染みの寿司屋に通夜の席で出す寿司と、料理を頼む。
料理は寿司屋の仲間の仕出し屋で、翌日の会席料理を頼んだ。
酒も近所の顔見知りの店に頼んで、みんなお任せしちゃった。

色々、葬儀の準備が進み、夕方から納棺。
また、涙が込み上げる。

正直な気持ちを言えば、葬儀が進んで欲しくない。
ずっとお袋の顔を見ていたいって、子供みたいな気持ちになる。
暇さえあればお袋の顔を見て、冷たくなった頭や顔を撫ぜていたんだけれど
納棺してしまうと、蓋についた窓越しでしか、お袋の顔を見れない。

でも、穏やかでまるで眠っているかのような表情。
今にも目を開けて『喉が渇いた』って言って起きてきそうな感じ。

明日は通夜かぁ・・・・
やっぱり、お袋が火葬されてしまうのは嫌ですねぇ。
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御礼

2011年01月23日 | Weblog

お袋が亡くなりました。
兄貴がブラジルへ旅立つのを見届けていたかのようです。
幸い、姉貴と僕と兄嫁、姪と甥に弟夫婦が居て、
僕が手を握りながら、みんなに見守られて最後の時を迎えさせてやれました。
大好きだった母親の最後を、見届けられて良かったです。

皆さんから、色んなコメントを頂き励みになりました。
今まで、ありがとうございました。

今は、頭の中が真っ白で、暫く日記を書く余裕が無いかも知れません。

雄二

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親父とお袋

2011年01月22日 | Weblog
今日はまた稽古。新しい振り付けで僕も参加。
今回の振り付けは、ミュージカルらしい動きのある振り付けが
多い感じがするけれど、これが結構覚えるのが大変。
とにかく、家に帰って復習するしかありませんな。
で、明日は女性のみの振り付けらしく男性陣はお休み。
先週に続いて、日曜日はゆっくり過ごせそうです。

稽古の後は、急ぎ足で荻窪の実家へ向かった。
途中、駅の食材売り場で姉貴と食べる夕食の食材をショッピング。
一人で寂しいだろうと思って、電話したら弟夫婦が来ていて
お袋のケアの手助けをしていた。
僕は普段使っているマイクロビーズの枕を、お袋に使ってもらおうと持って行った。
僕の使った臭いが浸みこんでいて嫌かなぁ?でも、柔らかくて気持ちいいんだよ・・・・。

お袋は体の機能が色々と麻痺し始めて、耳は殆ど聞こえず、
目まいがするので、目も開けられない状態が続いている。
手もパンパンに浮腫み、いよいよ最後の時が近づいている様子。
兄弟は皆、覚悟をきめている。
兄貴は昨日、最後の別れをして今朝ロンドン経由でブラジルへ旅立った。

この二ヶ月間、姉貴はお袋と色々な話を時間をかけて聞いてやっていて
そのことを話してくれた。
僕も、伯父の家に居候していた時期があって、その頃に親父とお袋の
事を聞いたり、親父の兄弟である伯父からも話を聞いていたが
姉貴がこの二ヶ月間で聞いた話は、今まで以上に感動する話が多かった。

親父は23歳の時にお父さんを亡くし、25歳で母親も失った。
その頃、お袋はといえば保険会社の受付嬢をしていたそうだ。
お袋は子供の頃から、お金に困ったことが無く派手なお嬢様で育った娘で、
子供の頃から親に大きなエメラルドの指輪を誕生日のプレゼントに貰ったり
着物やドレスも沢山持っていただけじゃなく、高級な洋服も自分の好みに
仕立て直してきているほど、金銭感覚など皆無に等しかったそうだ。
そんなお袋は、受付に居たせいもあって男性社員の人気者だったらしく、
親父は無口な男で、いつも遠巻きにお袋を見ているだけだったそうだ。

そんなある日、親父の両親が亡くなり社員がみんなで葬儀に出かけると聞いて
軽い気持ちで『私も行く』って、男性社員に混じって出かけたそうだ。
そこで見た光景が、お袋の人生を一変させた。

親父は兄弟を4人抱えて、その一番下の妹はまだ10歳。ついこの間亡くなった、叔母だ。
その子が、親父の膝に乗って葬儀に参加していたそうだ。
それを見たお袋は
『自分は何一つ苦労無く育ったけど、この子は一体どうなるんだろう?』
と思ったら、自分がこの子を面倒みてあげようと考えたそうだ。
そして、今までの生活を改め、裕福な生活をしていた家を捨てて
親父の元に押しかけ女房で行ったそうだ。

当然、親の僕の祖父母は猛反対。
ところがお袋は、親戚の手助けを貰って駆け落ちで親父と一緒になり
親との関係を断ち切った。
お袋はお嬢様の生活を捨てて、指輪や着物を質屋に持って行き、
『これでお米が買える』って
親父の兄弟まで一緒に面倒見ていたそうだ。これは叔父の話。

その後、兄貴を出産。今で言う出来ちゃった結婚。
僕の家と兄弟の歴史は、ここから始まった。
お袋の深い愛情は当然、自分の子供にも注がれて
僕は小さい頃からお袋の優しさが大好きで、この歳になっても変らない。
天真爛漫なようで、実は自分から苦労を買って出たお袋。
お袋のような人生を、今の人には出来ないだろう。
社会的には平凡な、主婦の人生だけれどね。

余程、親父のことが好きだったんだろうな。
いや、死ぬほど好きで好きでたまらなかったのだろう。
そうじゃなくちゃ、親父の兄弟まで面倒なんか看ないだろう。
だから、親父が63歳の若さで亡くなった時、お袋は本当に可哀想だった。
まだ57歳だったんだから、姉貴の年齢で未亡人になったわけだ。
もうすぐ、大好きな親父のところへ行ってしまうのかな?

明日は稽古が無いので、またお袋に会いに行こう。
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兄貴のメール

2011年01月21日 | Weblog

僕は4人兄弟の3番目。
一番上が6歳上の兄貴で、その次が4歳上の姉貴、
そして僕の2歳下に弟という4人兄弟。

お袋と親父は、戦後知り合い、親の反対を押し切って
お袋がいわゆる『押しかけ女房』というか、駆落ちで一緒になった。
笑えるのは、その2人をお袋の親戚みんなでかくまっていたという事。
それだけお袋と親父の関係は、みんなから歓迎されていたらしい。

そして東京の高田の馬場で兄が生まれ、結果的に二人の仲が認められ
姉は実家の荻窪で生まれた。
その後、親父は仙台転勤になりそこで僕と弟が生まれ、僕が6歳になる時に
埼玉の浦和へ戻ってきた。
その頃、オール5の成績だった兄貴が、天狗になっているのを窘めるように
お袋が先生に頼んで、成績を全て4に下げさせたのをきっかけに
兄貴はお袋と決別して、中学校へ進学する時に兄貴は祖父母の住む荻窪へ
たった一人で離れて暮らす事になった。

姉は高校から、弟は中学校から、いずれは戻る荻窪へ移住して
兄貴と一緒に祖父母の元で暮らすようになった。
親父夫婦が祖父母の面倒を看るために荻窪へ戻るまで
兄弟では僕一人が、最後の最後まで大好きなお袋から離れずに暮らしていた。

兄貴は両親が荻窪へ来るのと入れ違いに、全寮制の商船大学へ入学。
卒業後は住友金属の鹿島埠頭で物流の仕事に就いて、お袋とは疎縁になっていた。
兄貴は『俺は親を捨てたんだ』とか
『俺は親子の縁が薄いんだ』と、事あるごとに僕に話をしていたのだが、
実際にはそうじゃなく、それは兄貴が思い込んでいただけ。
お袋は可哀想なくらい、いつも兄貴に対して負い目を持っていて
何かと言うと、兄貴の事を気にしながら生活していた。

その後兄貴はアメリカへ渡り、姉貴は豪州で国際結婚。
今、直面しているお袋の最後の時間のために、姉貴は帰国。
定年後の再就職でブラジル転勤が決まり、この夏にお袋が発病してから
毎週のように、実家へ来てお袋の様子を伺っていた兄貴が
もう会えないと思って出かけたブラジルから急遽帰国して、
なんとか兄弟みんなで送り出してやれると思っていたら
皮肉な事に姉の介護でお袋の生命力が信じられないほど強くなった。

変な言い方だが、予想より2ヶ月以上長く生きている。
兄貴は前から決まっていた明日からの出張は、この先の会社の運命を
左右する仕事なので、どうしても4ヶ月間は戻れない。

それで、兄貴はブラジルへ出かける前の今日の昼間に、お袋の顔を見て
『明日出かけるから』と挨拶をしに、実家へ行ったそうだ。
そして、最後になるだろうお袋との時間を過ごして帰って行った。

その直後に兄貴から僕にメールが来た。
『今日の午後に荻窪へ行き、お袋に挨拶してきました。
帰国時期は4月上旬になるので、最後の挨拶かも知れません。
後のことは、申し訳ないけれど宜しくお願いします。
妹にも話しておきましたが、途中で戻る事はしないつもりです。
馴染みの住職と、葬儀屋さんでささやかな見送りを考えてやってくれると嬉しいです。』
と書いてあった。兄貴の気持ちを考えると、可哀想で言葉にならなかった。

このメールを見て、『僕は親兄弟に恵まれて、本当に幸せな家庭で育ったんだ』
って思えて、また涙が出てきた。


一時期、僕一人がお袋の面倒を看させられているって勘違いして
兄貴と険悪な関係になった事も有るけれど、兄貴にしてみれば
面倒を看てあげられる僕が、羨ましかったんじゃないかな?
同じ兄弟で、兄貴はお袋にもっと甘えたかったんじゃないかな?
僕のように、学校から帰って『今日はこんな事があったんだよ』なんて
普通のやんちゃな男の子で居たかったんじゃないのかな?

兄貴のメールを読んで、兄貴の気持ちは最後まで伝わらなかったのかな・・・・って
そんな気がしたので、
『兄貴の気持ちは皆が解ってるからね。くれぐれも体に気をつけて行って来てください』
と、メールに書いて送るのが精一杯だった。
兄貴が帰ってくる4月まで、お袋が生きていてくれるよう祈っている。

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『通りすがりの人』

2011年01月19日 | Weblog
今日はちょっと心が傷ついて帰宅。
と言っても、深刻な話じゃない。
どちらかと言えば、お笑いネタに近いのです。

ここ一年は、自分のやりたい仕事を全くやる余裕が無い。
時間的なことより、気分的に余裕が無いと仕事をしてもいい結果が得られない。
これは僕だけじゃなく、世間一般の話だと思うのだけれど。

仕事と言えば管理業務と、承認の日付印押し。
それと計画作成や、来年度の事業計画予算の申請のために時間を費やしている。
それ以外は、反吐が出るほど会議のオンパレード。
今日は9時から改善提案の審議委員会、10時からは僕の部署のミーティング。
午後は開発、設計が一緒になって来年度の開発計画作成と予算申請の打ち合わせ。
これだけで3時になってしまった。

昼休みも、トラブルの原因追及で20分以上休み時間に食い込んで
サッカーも出来ないで終わっちゃった。
明日の午前中までに、予算申請の書類を作らなければならないので
3時からその作業を始めたところに、製造部から応援要請が来た。

若手は?・・・・誰も居ないじゃないの・・・・
てな訳で、仕方が無く僕が久しぶりに現場対応へ出向いた。
顕微鏡の画面にノイズが乗るという、良くあるトラブル。
ポケットに手を突っ込んで『どうだぁ?』って現場へ登場。
今まで調査した結果を聞いて、おもむろに僕が何箇所かケーブルを外して
『これでどうだ?』って。製造の担当者に聞きながら原因となるノイズの
進入ルートを探る。
それで図面を持って来させて、『おい、図面と違うじゃねぇか・・・』。
それで最新図面を持って来させて、原因箇所らしき場所を発見。
結果的に、僕が指摘した箇所に設計変更の連絡漏れがあって、
その部分を直して、結果を報告してくれと言って席に戻った。

結果すぐに、トラブルは解消したと連絡が来て一件落着。
一時間足らずの対応だったが、久しぶりに仕事をした感じ。

夕方、喫煙所でその対応に当たった人間がこんなことを言っていた。
そのトラブルに対応した時に、本社の応用研究室から実習に来ていた
新人社員が居て、僕の対応を見ていたのだけれど
ポケットに手を突っ込んでぶらりと現れた僕が、トラブルを直したのを見て
『この会社はさすがですねぇ・・・』と話した後に
本社とは違って通りすがりの人が装置のトラブル直して消えちゃうんですから・・・
と言ったそうだ。
それを聞いた僕が
通りすがりの人って、僕のことかよ・・・・・』
って言ったら、その会話を聞いていた周りに居た人間が大笑い。

おいおい、僕はまがりなりにも電気設計の親玉だよ・・・・
それが、本社の新人で僕を知らないとは言え
『通りすがりの人』に見えちゃうんだ・・・・・
ポケットに手ぇ突っ込んで、ぶらりと何気なく登場したから、
『通りすがりの人』
になっちゃったのかなぁ?
それとも、とても親玉には見えなくて用務員のおじさんくらいに思われたのか?

いずれにせよ『通りすがりの人』と言われた事がちょっとガッカリして
心の傷となって帰宅したのでした。
明日からメールの署名を『ラ・フランス(洋ナシ=用無し)』から
通りすがりのものって、変えようかな・・・・・
応用研究室の上司は・・・
良く知っている、毎年年賀状が来るあの野郎だ!
どんな教育してるんだって、メールしてやろうかな・・・・・・くそぉ
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『怖い夢』

2011年01月18日 | Weblog
お袋の看病をして居る姉貴が、今日から25日まで一人きりになる。
姉の次女が去年から日本に来て、原宿の表参道ヒルズにある
『MissMe』という、高級ジーンズを扱うショップで働いていたのだけれど
結局、思うような売り上げが上がらず、今月11日で閉店。

来月には豪州へ帰国する予定なので、今日から貯金を使って25日まで
一緒に働いていた女の子とグァム旅行へ出かけた。
今まで2ヶ月間、姉貴が頑張って来られた背景には
この次女が一緒に暮らして居た事も、大きかった気がする。

そんな訳で、今夜から姉貴に毎晩電話をかけてやる事にした。

今日のお袋は相変わらず寝ている時間が殆ど。
目を開けるとめまいがするので、目が覚めていても目は閉じたまま。
一日わずか1時間くらいしか、姉貴とお袋は会話できないのだけれど
お袋は自分の子供の頃に住んでいた銀座の数寄屋橋にあった自宅前で起きた、
2。26事件の話や、戦時中や戦後の結婚当時の話などをして
20年間離れて暮らしていた姉貴と、時間を取り戻すかのように話をするそうだ。

ところが今日は『怖い夢を見た』と、姉貴に話をしたそうだ。
知らない女性が夢の中に現れて、お袋のところに近寄ってきて
『私が死んだら、あんたも死ぬんだよ』って言い寄ってきたらしく
怖くて怖くて、仕方が無かったそうだ。
そして『やっぱり、お迎えが着てるのかネェ・・・』なんて言ったそうだ。

何だか、この期に及んでそんな怖い夢を見るなんて可哀想。
神様、お袋にそんな夢を見せないで、お笑いネタの夢にしてあげてよ。
笑って笑って、最後は僕の大好きな笑顔のお袋で居させてあげてよ。
神様、何故そんなにお袋を虐めるんですか?
他人に優しく、騙されても笑って流す。
そんなお袋に、何故辛い仕打ちばかりするんでしょうか?

そういう話を聞いてあげている姉貴は
もっと辛いんじゃないかなぁ・・・・
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目指してるのは“すばしっこいデブ”

2011年01月17日 | Weblog

今年に入って、膝の調子が今ひとつだったのも手伝って
いわゆる『サボリ癖』がついちゃった。
正月に食べ過ぎて、お腹はまるで妊娠5ヶ月。
このままで居るといよいよ、相撲に転向するか、
豚になって、試合ではGKしか出来なくなる羽目に・・・・・

 

芝居の稽古に行っても、なんだか自分のお腹が凄く出ている気がするし

台本の中の僕の台詞に『僕はお腹の出た中年だし・・・』

と言う台詞があって、『コン畜生』って思っていたのです。

 

先週、一回だけ練習に顔を出して『体が妊娠5ヶ月になっちゃった』

って仲間に言ったら、若手のスリムな高速ドリブラーが

『あれ、前からそうでしたよ・・・』なんて、グサリ・・・・・

 

その時に、僕は

『ふん、俺が目指してるのは“すばしっこいデブ”なのさ・・・・』

って、捨て台詞を吐いたんだけれど、その日は全く動けなくて・・・・

単なる豚になってしまった自分が恨めしくなったのです。

 

で、それから毎日、会社の帰りは駅まで歩くのでその間の約2000歩を

腹式呼吸で、腹筋を締めて息を吐き出しながら歩くようにした。

最初の3日は半分で腹筋が痛くなって、途中で止めたんだけれど

ここ一週間は、駅までずっと続くようになった。

今日、カウントしたら1100回。駅に着いたときに腹筋が痛くなった。

その甲斐あって、ここ一週間で少しズボンが楽に履けるようになった。

 

で、今日から昼休みのサッカーを再開。

今年最初ではないけれど、僕としては今日から始動。

思いがけず、若手に混じってゲームしたんだけれど、

なんせこの間みたいにお腹がユサユサ揺れる感じが無かったから、

やっぱり、少しだけれどお腹が締まって来てるみたい。

 

それに今日は、若手に混じって、ワンタッチでボールが気持ちよく回ったし、

上手くポジション取りも出来た部分があったりで、久しぶりに良い汗をかいた。

3月末にある、シニアの大会の申し込みの案内も着たので、

モチベーションも少し上がったのかな?

 

しかし、腹筋がちょっと痛い。

でも、お腹が出てきたのが気になっている方、お勧めです。

お腹を膨らませて、腹筋を使って息を吐き出しながら歩くのです。

呼吸に合わせて歩くから、早歩きになってちょっとした運動になる。

 

でもわき腹は、別のやり方をしないと落ちないなぁ・・・・

体を捻る運動が効果的なんだけれど・・・・・・・、

また何か考えようっと・・・・・

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数十年ぶりに書いた手紙

2011年01月16日 | Weblog
去年、12月の日記に書いた『思いを寄せていた雲上人』のご本人から年賀状が届いた。
年賀状を見て、唖然・・・・・
なんとそこには『卒業まで居ましたけれど・・・・・』って書いてある。
僕は年賀状を見ながら、『えぇぇぇ・・・・』って、声を出しちゃったほど驚いた。

だって、中学三年からずっと『あの子はどうしてるかなぁ?』
なんて、40年近く経った今でも考えていたほどの存在が
実は、隣のクラスに居たなんて・・・・・

2年生の終りに『Tさんは転校する』って聞いて、ガッカリして3年になった。
そして、彼女の事が忘れられなくて、他の女の子には一切興味を持たず、
健全な中学校生活を送って、卒業したのが馬鹿みたい。
考えてみれば、隣のクラスに顔を出した記憶も無い。
居るなんて全く思って居なかったから、卒業式の時にも気がつかなかった。

卒業アルバムも、そういえば卒業した後に見ていないし
今や何処にやったのか?すら、判らないほど中学校の生活の記憶が薄い。
記憶にあるのは、むさ苦しい仲間の男子生徒とのサッカーや
野球の思い出しか浮かんでこないのでした。

なんだよぉ・・・僕の中学校生活は、もしかしてもっと時めきの時が
有ったかも知れないのにぃ・・・・・・
なんて、この正月は悔しいやら、何だかわからない感情で過ごしていた。

で・・・・、なんか気持ちが治まらないので、便箋を買って来て
なんと数十年ぶりに手紙なんぞを書いてしまいました。
下心も何もない。中学時代の思いを伝えたところで仕方が無い。
で・・・・、『寒中見舞い』と称して、自分の間抜けなところを伝えた感じ。

しかし、久しぶりに手紙なんか書いちゃった。
最初は便箋に筆ペンで便箋一枚に書いた。
読み直すと、何かまとまりの無い文章。
その上、誤字脱字が発覚して書き直し。

書き直しも筆ペンでサラサラ書いたけれど、今度は2枚になった。
そして2枚目は字が汚くなって、まるで中学生のような文字。
見ている自分が恥ずかしくなったので、また書き直し。

3度目は普段、日記を書くときに使って、使い慣れている万年筆。
今度は書くたびに読み直して、伝えたい事と要らないことを校正して、
結局、3度目は3枚になった。
文字は、そこそこの文字で書けたので60点くらいの出来。
元々、字が汚いのだから仕方が無い。

便箋を前に、手で文字を書く手紙って、ワープロやメールで書く文章と
気持ち的にも全然違って、まず書く前に結構時間がかかった。
高校生の時に、5歳年上の女性といわゆる「文通」をしていて
毎日のように手紙のやり取りをしていたことがあって、
なんだか、凄く新鮮な気持ちになった。

本来、手紙ってそういうものだよなぁ・・・・
メールで「愛してる」って書いても、手紙の「好きです」より弱い感じ。
今回は、そんな色っぽい文章は皆無だったけれど、
たまには、手書きの手紙を書くのも良いなって思いました。

ただ、貰った彼女はどう思うんだろうか?
今どきの若い人は、簡単にメールで送っちゃうだろうから
相手に出すまでの、こういう感覚は絶対に持ち合わせていない気がする。
それだけ、他人に気持ちを伝えるって作業が、安易なものになってるんだろうな。
手紙で返事が着たら、嬉しいんだけど、期待しない方が良さそうですね。
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稽古3日目

2011年01月15日 | Weblog

今日は芝居の稽古があったんだけれど、夕方まで女性陣のダンスの振り付け。

そんな情報があったので、僕は夕方まで床屋に行ったり、お袋の様子を伺ったり

時間を有効に使って、6時から参加した。

 

それまでやっていた女性のダンスは、『杖ダンス』と呼ばれるものらしい。

おばあちゃんが、杖を使ってダンスをするんだけれど、

実年齢が85歳の団員が居るわが劇団ならではのものになりそう。

なんせ、ダンスの唄に

『♪5060はヒヨッコだ

70からが本番だ

8090は花盛り 

♪あとは100まで200まで』

なんて歌詞があるくらい、軽快なロックンロールにあわせて踊るらしい。

他にも

『♪修羅場くぐってシュラバラ シュラバラ

♪どたんば切り抜けドタバタ ドタバタ』

なんて、部分もあって何やら楽しそうなダンスになりそうです。

 

この中に、おばあさんに混じってダンスをする若手が

 『ばぁば 入れ歯で シャバダバ』って云う歌詞を

ババァ 入れ歯で シャバダバ』

と歌ってしまって、年配のオバさまたちに

「ちょっと!お上品に!」って、叱られたそうです。

 

このシーンは若い子もオバアさんの格好をして踊るらしいので

久しぶりに劇団『ステージドア』らしい、ステージが期待できそう。

この劇団は、若い子が踊ってもちっとも面白くないので、

80代の劇団員を筆頭に、殆どが50歳以上の中高年で構成された

『ステージドア』ならではの舞台になるんじゃないかな?

出来上がったものを観るのが楽しみになってきました。

 

僕は6時から丁度、休憩が入った直後に参加。

オープニングのナンバーの振り付けを練習して、早めに終わっちゃった。

一応、今回の公演で一区切りつけるつもりで居るので

今回は、いつも以上に最初から気合が入っています。

 

芝居は楽しいんだけれど、それ以外の部分で納得行かないことが多々あって

僕は我侭だから、そういう事を我慢してまで遊びをするつもりは無いのです。

去年始めたサッカーも、前に居たチームの起用法が気に入らなくて

結局、自分が楽しめるチームを作ってしまったんだけれど

芝居に関しては、自分で劇団を作るような気は毛頭ないからね・・・・。

 

まぁ、一区切りつけるつもりだけれど、辞めるかどうかは

公演が終わった時に決めるつもり。

去年の公演の後に、辞めるつもりが結局、態度をはっきりしないうちに

今回の公演の構想に入れられてしまったから、断れなかった。

辞める事を前提に、一区切りつけるんじゃなくて、続けるためには

自分の気持ちをはっきりさせておかなくては・・・・・

と言う、ポジティブな発想から来る一区切り。

でも、いざとなったらスパっと辞める気じゃないと駄目だからね。

 

劇団の公演の告知をしておきます。

劇団ステージドア第20回公演

『人生は、一度きり!』

脚本:ヒューイ・ロックフィールド

訳・演出:伊藤 清

美術:土屋 茂昭

照明:塚本 悟

音響:実吉 英一

音楽:大塚 彩子

振り付け:河岡 裕門

会場:青山円形劇場(こどもの城)

514日(土)PM6:30

  15日(日)PM1:30 5:00  (全3回)

チケット:3000円(全席自由)

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生きてゆくのに必要なのは理科、社会、国語

2011年01月14日 | Weblog
うちの次女は中学3年生。つまり、あと数週間後には受験。
1年生の頃から全然、勉強をしないで進級してきたんだけれど
『内申点は、テストで100点を取ったからってオール5にはならない』
って、ずっと言い続けてきても、全く聞く耳持たずで
3年生になって、塾通いでテストの成績は80点平均くらいに
なったんだけれど、内申点は殆ど変らずガッカリしていた。
ちょっと厳しすぎる気もしたけれど、内申点なんてそんなもの。

まぁ、受験は希望校に行けそうな感じなので黙ってみて居るつもり。
都立高校へ決まったら報奨金として、私立の入学金をあげるって
約束しているから、パソコンが欲しい次女は必死に頑張っている。

ちなみに受験の主要3科目って、英語、数学、国語。
僕の持論は、理科、社会、国語。
生きて行くのに必要な知識として国語は必要。
国語が出来ない人間が英語なんて覚えてどうするの?って思う。

そして社会は、世の中の仕組みや憲法の解釈、それに大事なのは
現代史をキチンと教える事だって思う。
歴史と言うと、鎌倉幕府だとか江戸幕府だとかを教えるけれど
明治以降の日本が、国際社会でどのような歴史を送ってきたか?
を知らない事が、非常に問題だと思う。
中国や韓国との関係、アメリカやロシアとの関係をキチンと理解しないで
この先の国際化社会で生きて行けるとは思わない。

外国へ行って、自分が日本人だという事を強く思ったし、
外国人には『日本』の事を、色々訊かれる。
自分より日本の事を知って居る外人が居たら、ちょっと嫌だしね・・・。
日本を知るって事は大事だし、それで愛国心も育まれるはず。
愛国心という言葉を嫌う国民って、日本人くらいなんじゃないかな?
アメリカなんて、露骨に国家への忠誠を宣誓させられるし、
僕は、それが当たり前のことだと思うけれどね。
国旗や国家に誇りを持てないならば、日本人を辞めればいいのよ・・・・

そして理科。
これは物の原理や、理屈が良く判る。遊びの延長でもあるしね。
理科を突き詰めて行くと、最後は数学になるんですよ。
そして数学の意味も判ってくる。
公式や定理みたいなものを頭で覚えようとしたって無理。
理科を通じて、体で覚えたことを数値化する作業で、
数学は判るようになるし、そもそも計算の結果が形になるような
感覚が芽生えてくるから、計算する事が楽しくなる。
この僕が、典型的な例です。

要は生きてゆくのに必要な事は。理科、社会、国語。
英語なんて道具に過ぎないから、音楽や技術家庭、美術、体育といった
科目と同じ扱いで、主要科目なんて類のものである必要は無いのです。
日本語をまともに喋れない、文章を書けない人間が英語を習ってどうするの?

来春の教育改革は、学力低下を嘆く阿呆な文部科学省が
『ゆとり教育』をやめて、カリキュラムをより高度にするみたいだけれど
『ゆとり教育』以降、10年前には居なかった凄い10代の若者が
色んな分野で、日本に沢山輩出されて来ている事は、評価しないのかね?

でも、次女には楽しい高校生活を送れる学校へ行って欲しいな。
16歳から18歳なんて、女の子にとって一番楽しい時期なんだから・・・・
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