今更ではないが、昨今のテレビ報道や周辺での若年層の会話を聞いていると、言葉遣いが何とも曖昧で気になってる。
社会構造の変化や価値観の多様化によるものと言ってしまえば簡単ですが、曖昧な表現は日本語の伝統文化が崩れていくのではないかと危惧している。
日常耳にする気になる曖昧なぼかし言葉を挙げると、
「〇〇っポイ・・・」、「〇〇って感じ・・・」、「~はいいかもしれない・・・」、「もしかして~」、「~みたいな・・・」、「〇〇じゃないですか?」、「〇〇って言うか」、「私的には・・・・」、「すご~い・・」、「○○という話もある・・」、「○○とか・・・」、 など、枚挙にいとまがないが、何故はっきりとした表現をしないのだろうか?
まわりの曖昧言葉につられて話すのか?はっきり言える自信がないのか?表現力がないのか?はっきりとした言葉づかいを避けているとは思えないが、聞く方にはその意思が伝わってこないのである。
中高年層の世代には、それほど乱れているとは感じていないが、若年層との会話では、中々馴染めないのである。
SNSなどのネットワークによる情報伝達手段の発達の影響も大きいのだろう・・・
不特定の相手や顔の見えない相手への発信では、ぼかし表現となるのことも理解できない訳ではないが、特定の相手との会話でも同じ表現となってしまうのだろうか?
管理者が特に感じるのは、テレビのスタジオからの放送やインタビューを聞いていると、アナウンサー、キャスター、コメンテイターが、はっきりと因果関係も把握しないまま、推測で物を言い、「~っポイ・・」、「~というか」などを連発しているのである。
発言者には、その意識が無くても、不特定の視聴者には当たり前の表現のように受け取られて、伝染しているのではないのか?
また、専門家でもないタレントがコメントを求められていい加減な表現で発言しているのも止めて欲しいのである。
マスコミの事件報道では、推測でセンセーショナルに伝える習慣があり、その表現には品位も見識もない言葉遣いが多いと感じている。
視聴者には、子どもなども聞いておりその影響は計り知れないと考えている。
曖昧な言い回しで、その判断を聞く側に委ねるような言葉づかいが目に余るが、現代社会でのいろいろなトラブルも相互のコミュニケーション不足による影響も無視できないと考えている。
日本の文化には、「阿吽の呼吸」という微妙なタイミングで意思疎通を図れることもあり、言葉遣いだけではないと思うが、多様な人間関係の中で世代間を超えて円滑な意思疎通を図るツールは、やはり言葉づかいであろう。
日本語の正しい言葉遣いの伝統を守っていかねばならないと憂いている。