戦争を知っている人が少なくなった。73才になる私などがもう最後かも知れない。
私の人生は真珠湾攻撃の前年、1940年に始まった。終戦は五才でむかえた。食べ物のない辛い時代だった。父は出征し、母と姉と弟の四人の生活だった。疎開先では川土手を開墾してジャガイモを植えた。朝顔を洗う小川で見つけたうなぎが晩のおかずになった。カボチャの花で食用カエルも釣った。食べると鶏肉のような味がした。母がいない時に疎開先の叔母がご飯を食べさせてくれた。お茶碗にてんこ盛りの炊きたての白米ご飯を「いくらでもお変わりしいや」と笑顔で言ってくれた。目を丸くして、口一杯に頬張って、夢中で箸を運んだ。その情景は今もはっきりと瞼の裏にある。普段はお麦とお米の半々のご飯で、麦を、噛んだときの押し戻すような歯触りがいやだった。戦争が終わると直ぐに満州にいた父がヒゲぼうぼうで薄汚れた軍服姿で帰ってきた。しかし食料事情がよくなる訳もなかった。それでも父がいてくれるだけで心丈夫だった。父の弟が働いている会社の配給の化学肥料を持て来てくれて、開墾した畑のジャガイモにまくとお百姓さんもビックリの収穫があった。田舎に疎開していたから飢える事はなかったが、父も出征して収入のない母がどのようにやりくりしていたのか、幼い自分はわからなかった。ただ五才の子供もその苦労を肌で感じて、母の開墾の手助けを一生懸命していた。この話を家族にしても、嘘だろう、と言って全く信用してくれない。戦後の食糧難には親は本当に苦労したに違いない。栄養失調でお腹の大きく膨らんだ子供が沢山いた。自分たちはサツマイモやカボチャを毎日のように食べさされたけれど、何とか栄養失調にもならず生き延びた。
小学生になって田舎のおじいさんの家に行くと、今日は鶏を食べさせてやろう、と言って、飼っている鶏の首を子供の前で刎ねて捌いて料理してくれた。現在では考えられない情景だが、当時はそれが当たり前の時代で恐ろしいとも思わず、うまいうまいと食べた。其のせいかどうかわからないけれど現在鶏はあまり食べたくない。甘いものといえば、おばあさんの作る芋飴だ。今の高級菓子も到底およばない美味しさだった。そして、芋は蒸かして天日に干してかんころ芋つくって、かじったものだ。戦後の食糧難時代は何を喰っても、口に入るものは全て美味しかった、と言うよりは、食べるものがあるだけで嬉しかった。母に言われて鶏肉を買いに行って、モツの中に黄身を見つけると笑顔になった。戦後も十年経った頃、海軍で司厨員をしていた叔父が〝焼き飯〟を作ってくれた事があった。それを食べた時、え、これは何と言うものだろう、こんな美味しいものがあったの、と絶句した。具材はよく覚えていないが、卵とご飯と醤油とネギを炒めたものだったように思う。肉は恐らく入ってなかったに違いない。私はそれを真似て一ヶ月ぐらい毎日自分で焼き飯を作って食べた。それほどあの時の焼き飯は私の味覚に強烈だった。