ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

駆け出しの頃の学年通信

2019-09-03 20:32:01 | 「育」業
9月になって、週明け2日目。
以前に比べて8月から新学期や授業日が始まる学校が多くなった。
それでも、9月になってから新学期という学校はまだまだ多いだろう。

夏休みの期間中に、生活環境や生活習慣が大きく変わった子もいるだろう。
精神的に大きな動揺を抱えている子もいるだろう。
外から見ていてはわからない、そういう子どもたちの微妙な変化に応じられないといけない教職員の方々は大変だろうと思う。
思うが、わずかに表れる変化を見逃さずに子どもたちを救えるのは、まずは教職員なのだ。
また大変な日々が始まったが、がんばってほしい。
一線を退いた私には、そう祈るばかりだ。

さて、そんな私が勤めていた頃のあれこれが、保管してあった段ボール箱からいろいろと出てくる。
初めて正式に採用された学校は、少子化による学校統合で10数年前に閉校となり、今はもうなくなってしまった。
その初任校では、18名の1学級を小学校4年から6年まで担任した。
今日は、その駆け出しのころの学年だより(学級だより)3年分を、改めて整理して1冊に綴じ込んだ。

思えば、この最初の「学年通信」の文字も下手くそだが、この頃は「ホワイトミリア」の印刷用ボールペン原紙に直接書いていたのだった。

今のように、パソコンがない時代だった。
ボールペン原紙でなければ、いわゆるガリ版で、鉄筆で書くしかなかった。
だから、文字は活字ではなくとにかく手書きの文字だったのである。
学年通信に描き入れるカットも、自分で描くしかなかったのである。

これなどは、クラスにいた女の子をモデルに(?)描いたものであった。

やがて謄写ファックスの機械が盛んになり、カット集の絵を使用できるようになった。

3年間で発行した学年通信をまとめて、パラパラと見ていると、それだけで自分の成長が分かる。
最初の頃は、自公のあいさつのような文章や連絡ばかりだったのだが、3年目には自分の意見もかなり目立つようになっていた。

そして、教え子たちが卒業する時には、一人一人の似顔絵を描いて、個々にメッセージや思い出・期待などを書いていた。

このような似顔絵付きメッセージは、その後も教え子たちが卒業する時には書いたのだったなあ…。

もう、この教え子たちは、すでに40代の後半を迎えているはず。
悪い話を聞かないので、あんな新米教師に教わった彼らも、立派に今を生きているのだろうと思う。

そのことが、将来の自立を一番のめあてとして育てる仕事をしていた私には一番うれしいことである。
コメント
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