「冬の喝采」に関することを書くのも、これで3回目。
メディアに自分の住んでいる場所や訪れたことのある場所が登場すると、どういうわけかうれしさを感じるものだ。
「知ってる~」と言いたくもなるが、知ってるから何だ、と言われればそれまでなのだが。
2日前には、それが自分の学生時代の思い出につながるということで、「冬の喝采」から引用して紹介した。
その際、「この本を読んでよかったことが、実はもう一つある」と書いた。
今日は、そのことについて書いておきたい。
「冬の喝采」には、著者が大学3年生及び4年生の11月に、ある大会に出るために訪れていた場所がある。
そこは、なんと、高校時代までの私の人生にとてもかかわりが深い、故郷の地だったのだ。
知っている人物も登場していた。
その文章たちを挙げて、記しておきたい。
▶著者が大学3年生のとき
新潟県北蒲原郡中条町に来ていた。県北部の日本海に面した町である。人口は三万人で主要産業は稲作(コシヒカリ)。
新潟県二〇キロロード選手権に出場するためである。
昨晩は、選手全員で町の村上屋旅館に泊まった。
(略)
「熊倉さんの大会も今年で三回目になりました。花を添えられるよう、瀬古だけじゃなく、ほかの選手も好記録を期待してますということです」
熊倉さんというのは、六十四年の歴史で、唯一の女性部員である。現在は、新潟陸上競技協会の幹部で中条町長夫人。この大会を中心になって運営している人だ。年齢は五十歳くらいで、現役時代は投擲の選手だった。早稲田のチームは第一回から大会に参加している。
(略)
東の方角にある櫛形山脈(標高二〇五二メートル)の紅葉した山並みから、朝日が差してきていた。西の方角約7キロメートル先は日本海で、空は遮るものがなく、すっきりと広い。
大会には、約五十人のランナーが参加した。早稲田が最多の十九人で、大会の盛り上げ役だ。駒沢大学からは、大越正善と阿部文明の二人。多いのは、協和ガス、東北電力、新潟大学といった地元の選手たちだ。
スタート・ゴール地点は、中条町総合グラウンド。
前夜の雨で、土のトラックには水が残っていた。周りは草地で、近くに、協和ガス化学工業のMMAモノマー(樹脂原料)製造工場があった。
▶大学4年生のとき
午後一時十九分上野発の特急列車『とき』に乗って新潟に行き、羽越本線のローカル列車に乗り換え、中条まで来た。夕方、宿泊先の村上屋旅館に着いた時は、熊倉重さん(競走部唯一の女性OBで中条町長夫人・新潟県陸協普及部長)の家に夕食に行っていた。
ここに出てきた北蒲原郡中条町は、現在「胎内市」となっているが、実は、私の生まれ故郷なのである。
だから、文章に出てきた「村上屋旅館」や「協和ガス化学工業」、「櫛形山脈」などは非常に懐かしい名前だ。
自分が、小・中・高と過ごした場所だけに、今でも、昔見た風景としてそれらを思い浮かべることができる。
文中では、櫛形山脈が「標高二〇五二メートル」と、ものすごく高い山として紹介されているが、これは誤りだということを指摘しておきたい。
実際は、南北約14kmしかない日本一小規模な山脈として有名であり、最高峰の櫛形山でも標高は568mしかない。
子どもの頃から、毎日そんな櫛形山脈を見て育った私であったから、ちょっとこだわる。
中学3年の頃には、当時の友だちの家の近くに協和ガス化学工業の工場があった。
そこの体育館に行って、友だちと卓球をして遊んだことが何度もあった。
何度か出てくる、町長夫人の熊倉重さんは、単に中条町長の奥様というだけではなく、高校の教師をしていた。
私の高校2年生時代、世界史の先生はこの熊倉重先生であった。
その授業の仕方は、大学の講義そのものと言ってよいものであった。
歴史上のできごとを、まるで物語を語るように、立て板に水のごとくひたすらにしゃべり、板書も理解を助けるものではなく、人物名や出来事などがなぐり書きであった。
生徒たちは、教科書に書いてないことをたくさん聞かされ、何が重要な出来事なのか、何をノートするかなど、自分で判断しなければならず大変だった。
だけど私は、世界史の授業は嫌いではなく、むしろ興味が持てて好きであった。
だから、大学受験の教科には世界史を選んで勉強したのだった。
熊倉重先生は、陸上部の顧問で、東京オリンピックでは審判員として参加したのだということを、周囲から聞いてはいたが、早稲田大陸上部で投擲種目をやっていたとは知らなかった。
しかも、64年の競走部の歴史で唯一の女性部員だったとは。
あの頃もっぱら女傑的な存在だったが、そのエピソードはさすがと言いたくなる。
そして、阿部文明氏(当時駒澤大)の名前が出てきた。
この年の大会では、瀬古利彦氏に次いで2位だったと書いてあった。
彼は、駒澤大学卒業後、NECホームに所属し、びわ湖毎日マラソンで2度優勝したり、アジア大会で銀メダルとなったりした、名ランナーであった。
高校時代3年の秋に、私は、体育祭の1500m走の種目で阿部氏と共に走ったことがある。
この種目は、学級代表が1人ずつ出場して走るのだが、私はその一人だった。
前年度県中学№1で、私より2学年下の1年生だった阿部氏は、もちろん学級代表だった。
最初の2周くらいは、2年生の野球部のエースが先行したので私も後について行ったが、3周目で、3番目に付けていた阿部氏がスピードを上げて前に出た。
無理して1周くらいくっついて行った私だったが、その後は再び野球部のエースにも抜かれ、7周半走ってゴールする頃には、半周以上離されていた。
甲子園目指して毎日10㎞走っていたという野球部のエース君が2位で、私は3位となった。
たった1度のレース同走であったが、「あの名ランナー阿部文明氏と一緒に走った」という経験は、高校時代のというだけでなく、人生においてもいい思い出として残っている。
なお、阿部氏は、競技生活終了後、胎内市に帰って暮らしている。
まだ上越新幹線が開通していない当時は、特急「とき」に乗っても、上野から新潟まで4時間かかった。
新潟から白新線や羽越本線に乗り継いで1時間かけないと、中条には着かなかった。
そんな時代に、著者や瀬古氏たちは私に身近なところまで来ていたのかと感激(?)しながら読んだ「冬の喝采」でもあった。