「おらおらでひとりいぐも」
数年前、これが芥川賞受賞作と決まったときに、NHKのアナウンサーが「オラオラ デ」と「おら」を2つつなげて言っていたので、違和感があった。
それ、きっと、「オラ オラデ」と発音するのだよ、と言ってあげたい気持ちになった。
件のアナは、きっと東北弁をよく知らないのだろうなと思った。
私は、新潟県の下越地方に住んでいるが、この辺りの方言は東北弁に近い。
子どもの頃は、強い方言に囲まれて育っていた。
気の荒い同級生には、よく言われた。
「がみだんしゃんつげっど」
この意味を現代共通語に翻訳する。
「が」=きさま、おまえ
「みだん」=みたいなやつは
「しゃんつげ」=原語「しゃんつける」=はたく、なぐる
「っど」=ぞ、な(強調)
となる。
ということで、「がみだんしゃんつげっど」の意味は、
=「きさま、なぐるぞ!」「おまえみたいなやつは、なぐってやる!」
なのであった。
今の時代は、ほとんどの方言が死語になってしまった。
だけど、子ども時代の体験が、自分の中で「国語」となって生きている。
東北弁の「おらおらでひとりいぐも」は、耳に残っていたから、気になるタイトルであった。
これを私なりに、現代共通語訳すると、
「おら」=私
「おらで」=私の力で(独力で)、私らしく
「ひとり」=一人、独り
「いぐ」=行く、生きる
「も」=ものだ、…のだ
のように考える。
だから、「おらおらでひとりいぐも」の意味をこうとらえる。
=「私は、私の力で、独りで生きていくのだ」
と。
のちに、このタイトル「おらおらでひとりいぐも」は、宮沢賢治の詩『永訣の朝』からとられた言葉だと知った。
本書を図書館で見つけ、かつて思いを抱いたタイトルにひかれて読んでみた。
独り暮らしの桃子さんという、74歳の女性が主人公。
話のほとんどは、その桃子さんのつぶやきで進んでいく。
話の始まりは、独居老人としてひとりで茶をすすり、ねずみの音に耳をすませる生活からだ。
桃子さんのつぶやきは、現在と過去とを行ったり来たりするが、全体とすると現在の生活や思いを追いかけていく。
結婚を3日後に控えた24歳の秋、東京オリンピックのファンファーレに押し出されるように、故郷を飛び出し、身ひとつで上野駅に降り立ってから50年。
住み込みのアルバイト、夫・周造との出会いと結婚、二児の誕生と成長、そして夫の死。
「この先一人でどやって暮らす。こまったぁどうすんべぇ」と途方に暮れる。
捨てた故郷、疎遠になった息子と娘、そして亡き夫への愛。
震えるような悲しみの果てに訪れる、老後の孤独。
そこまでなら、ありきたりな話でもあるのだが、桃子さんの内から外から、声がジャズのセッションのように湧き起こるようになる。
それによって、桃子さんは、自分が自由だということに気づく。
そして、「おらの今は、こわいものなし」の境地となる。
物語のあちこちで、老後の孤独ということに、自分の近未来を見るような気がした。
どんな思いで生きていくのか、過去とのつながりをどのように思いながらいるのだろうか、そんな感覚を抱きながら…。
自分が今思っていることの一部が、桃子さんの口から語られているようにも感じられた。
生きてきた時代、東北弁など自分との共通点が重なることが、その思いを強くしたのかもしれない。
作者の若竹千佐子さんは、この作品で芥川賞を受賞した。
1954年生まれで、63歳での史上最年長受賞だったそうである。
岩手県遠野市出身だから、この東北弁や宮沢賢治作品とのつながりも見出せるわけだ。
ちなみに、本書のことを、「青春小説の対極、玄冬小説の誕生!」とうたっている表現を見つけた。
「玄冬小説とは……歳をとるのも悪くない、と思えるような小説のこと」だそうである。
たしかに、「ひとりいぐも」つまり、独りでも生きていける、という自信に満ちているのがいい。
だが、物語の最後に出てくる孫娘との交流が、桃子さんを一番元気にさせてくれている気がした。
それはやはり、人として生きる喜びは、人との心のつながりなのだよなあということだ。
ともあれ、人生の重みを感じながら生きている高齢者たち(I‘m one of them.)に、「自由さ」と「生きる意欲」を感じさせる作品であった。
腰痛になって3日目、痛みに苦しむ私は、自由というより不自由極まりない今なんだけどね…。