本書を読みながら、自分が大学を卒業するために書いた「卒業論文」のことを思い出した。
私がいた学科では、大学を卒業するために、卒業論文は必修科目であった。
卒業論文を書いて、ABCDの評価のうち、少なくとも「C」を取らないと単位が取れないというわけだ。
論文は、300字詰めの大学の原稿用紙に100枚以上書くことが求められた。
あの当時は、パソコンなどなかったから、全部手書きだった。
手書きはまだいいとしても、中身に何を書くか、それが最も大変で大事だった。
テーマを決めるのも、内容にどんな主張を込めるのかも、中身の薄っぺらな私には、とても大変だった。
自分が選んだテーマは、「日本語と日本文化」であった。
島国である日本には独特の文化がある。
どんなところが独特なものなのか。
その独特さは、日本語のどのようなところに現れているのか。
そんなことを書くつもりだった。
ところが、途中でゼミの教授に30枚下書きを提出しろと言われたが、結局書けなくて出せなかったのだ。
言いつけに従わなかったら、教授にはこう言われた。
「ぼくはもう君たちの面倒は見ない。君たちの卒論、あとは学科長会議に任せるだけだ。卒業できるかどうかは、学科長会議で決めてもらうだけだ。勝手に書いて出しなさい。」
一瞬で顔が青くなった。
30枚でさえ書けないのに、100枚書いて提出しなくては、大学を卒業させてもらえない。
これは厳しい仕打ちであった。
しかも、書いて出したからと言って、卒業できるかどうかはわからない。
少しだけ気休めになったのは、それを言われたのは、私だけでなく私を含めて3人が、一緒にそう言われたという事実だった。
3人とも、とにかく必死になって(?)それぞれ、自分なりに100枚の卒論を書いた。
原稿用紙100枚をこえるだけのものをなんとか書いて提出したときはほっとした。
…さいわい、春には3人とも「C」をもらえ、卒業はできたのだった。
思い出話になってしまったが、文頭の本の趣旨は、Jポップを理解するには、日本語ゆえの表現に着目してほしい、ということだった。
日本の歌には「助詞力」が必要だと、著者は言っていた。
たとえば、ZARDの「あなたを好きだけど」という曲には、
「あなたが好きだけど」という表現も「あなたを好きだけど」という表現もあるが、どう違うのか、どういう効果が出てくるのかについて述べている。
沢田研二の「勝手にしやがれ」では、
「壁ぎわに寝がえりうって」と歌っているが、
「壁ぎわで寝がえりうって」とどう違うのだろうか。
「壁ぎわに寝がえりうって」だと、壁の方に向かって背中を見せる、という意味になり、行動に意味がある。
「壁ぎわで寝がえりうって」だと、単に壁ぎわで寝返りをくり返しているだけで、深い意味はない。
…など。
そして、補助動詞の「…ていく」「…てくれる」、「…ておく」「…てみせる」なども、日本語独特の表現。
同様に、接続助詞の「と」「ば」「たら」「のに」「けど」なども、意味を深める働きがある。
渡辺真知子の「かもめが翔んだ日」では、
人はどうして哀しくなると 海を見つめに来るのでしょうか
と歌う。
この「と」は、繰り返す日常を表す意味がある。
…など。
こうした日本語特有の表現が、Jポップ独特の表現となって、日本人の心に歌が入り込む。
だから、魅力を感じる歌のどんな表現にひかれるのか注目して聴くと面白い。
そういうことを著者は言いたかったようだ。
ただ、私には、内容の一つ一つよりも、日本語独特の表現に着目するということが、私自身の卒論を書いた40数年前の経験に重なった。
読みながら、たびたび懐かしい、いや恥ずかしい思いに浸っていた。
あわや卒業できないかも、というゼッペキに立っていた日々を…。