先日の町内祭りの最中に、私に声をかけてくれた人がいた。
同じ町内に住んでいながら、もう20年近くも顔を合わせたことがなかった方であった。
「オレのこと、分かる?」
そう聞かれたので、
「はい。えーっと、Hさんでしたっけ。」
と返答すると、
「違うよ。Bだよ。」
と笑いながら答えてくれた。続けて、
「お母さんは、お元気ですか?」
と、言葉もかけてくれた。
「いやあ、もう20年近く前に亡くなりました。」
「そうかあ。うちは一昨年。97歳だったよ。」
そう答えた相手の方、Bさんは、小学校時代に見ていた顔の面影がある。
私より年上の男性で、子ども時代は同じ小学校の2学年先輩であった。
名前を忘れてしまったのは、ゴメンナサイであった。
それでも、同郷の出身者ということで、ずいぶん話し込んだ。
前に会ったのは、私の勤務先でバスを依頼したら、その運転手がBさんだったとき。
なんともう20年も前になる。
定年退職後は、バスの運転ができるということで、結構働くところはあるのだそうだ。
「地域を巡る今のバス運転も、72歳になるまであと数年やめられないんだよ。」
たしかに今、県内の大型バス会社は人手不足で困っているようだ。
だから、経験のあるBさんのような方は、結構重宝がられているようだ。
「そういえば、Aって、 50foxさんの同級生にいたよね。彼、同じ仕事していたけど、ある日どこへ行けばいいか、全く分からなくなったのだって。若年性の認知症になってしまって、会社やめたんだよ。」
そんなことも教えてくれた。
現在、夏休みなので、横浜から小学生の孫がひと月近く滞在中なのだとか。
「いやあ。齢だから、孫の動きについていけなくて、大変。」
そう言いながらも、せっかくだから、小学生が参加するこの町内の祭りに孫も参加させてやりたくて、連れてきたのだという。
そんなことから、子ども時代の話にもなった。
「あの頃は、今よりまわりがずっときかなかったよね。」
『きかなかった』というのは、気が荒い、乱暴だというようなことを意味する。
「そうですよね。そちらの学年ではK男、私の学年ではM男ががっとでしたね。
『がっと』は、加減がきかない、強いというような意味だ。
「でもね、オレたちは、小学校の同級生たちとは今もよく会って飲んでいるんだ。だけどね、K男は、オレたちの集まりには一度も出たことがない。」
「そうですか。私らの同級会も今まで3度やったけど、ボス的存在だったM男は1度も参加したことがないですね。」
「やっぱり、みんなに顔向けできないものがあるんだろうね。」
そうかあ…。
リーダー的な存在ならいいけど、力任せだけのボス的な存在は、みんなから疎まれるということか。
50年以上が経過してなおこのような状況になるのが、人の心ということだね。
実は、このBさんに対して、子どもの頃の、50数年前の私はいい思い出を持っていない。
先述のK男にいじめられていたときに近くにいていやな思いをさせられたイメージが残っているのかなあ…。
まあ、それが被害者の心理というものだね。
今はこうしてすべて許せたり細かいことについては忘れたりして生きている。
Bさんは、子どものころ弱くていじめを受けていた私を知っているから、
「そんないじめの経験があったからこそ、50foxさんは『育』業の仕事にうってつけだったんじゃないですか?」
「そのうえ、長にまでなったのだから、大したもんだ。」
と、私を持ち上げてくれた。
子どものころの私だと、Bさんが私の人生を肯定的に認めてくれるなんて、思いもしなかっただろうなあ…。
Bさんと話しながら、自分の人生とBさんの人生のつながり、人とのかかわりなどについて、いろいろな思いを抱くことができた。
長い年月を間においた、貴重な再会になった。