ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

2度目のたいない高原マラソンで大苦戦(後編)

2018-09-10 20:17:38 | RUN
頂点に来たから、あとは下るだけ。
一気に走るほどの元気もない。
下り坂なのに苦しさを味わっていた。

下る途中で、先日埼玉まで来てくれた、いとこの息子クンが一人で応援してくれていた。
市役所勤めだから、ひょっとするとこれもボランティアの仕事かな?

ようやく平地に降りたが、おかしい。
まったく体が動かない。
去年は、ここらへんからキロ5分30秒前後で走れていたはずだ。
なのに、今年は6分中盤で走ることしかできない。
平地になって元気を取り戻したSIさんが、再び私を抜いて行った。
13km辺りからのその平地を16km地点で折り返す。
道は並行して走っている。
SNさんやSIさんたちとすれ違うが、励ましを受ける側になってしまっている私。

折り返すと、脚の力はさらになくなった。
3kmほどの間に、後ろから1400番台のランナーが私を抜いて行く。
1400番台は、私と同じ60歳以上のランナーなのだ。
そんな人たちに抜かれるのは、悔しいが、私には今この走りしかできない。
それよりも、まだゴールは先なので、なんとしてでもそこにたどり着きたい。
その一心だった。

苦しさの中で、先日亡くなった義兄のことを思った。
心の中で、対話しようとしていた。

健康のために、よく歩いたりマウンテンバイクに乗ったりしていたのですよね。
私も今、走っていますが、今日は苦しんでいます。
こうしてつらい思いをしながら走るなんて、健康に悪いでしょうか。
こんなふうに苦しみながら走ることを、私もいつまでできるのでしょうか。
まずは、今日は、なんとしてもゴールを目指して進みます。 

残り2kmを切ったところで、上の橋まで上っていく道がある。
最後まで歩かずに走る、という決意をしていたはずだったが、ついにここが限界だった。
腕を大きく振って歩きながら上った。

上って再び走り出したが橋からすぐに上り坂になると、とても走る脚がなく、また歩くことを選んだ。
残りは1kmしかないのだが、上り坂が終わるまではほぼ歩くしかなかった。

残り500mになって、下り坂。
やった、うれしい。
と思ったのも束の間、太ももからふくらはぎから、両脚ともつってしまいそうになる。
スピードはやはり上げられず、歩くようなスピードになったが、ゴールゲートを、両手を上げてゴールした。
やっとのことでのゴール。

参加賞のタオルと記録証を受け取った。

その近くで、知り合いの新教育長さんが、「お疲れさまでした。」と声をかけてくれた。
いい方だ。

【記念にツーショットの写真】

記録証を見ると、2時間14分台だった。

去年より17分も遅くなっていた。
見事に撃沈した感があった。
当たり前だ、あんなに歩きもしたのだから。
情けないような思いもあったが、今年は、これはこれで自分なりにベストを尽くした結果。
そう納得することにした。

教訓を生かし、体調を整え、ひと月後の新潟シティマラソンでフル完走を目指そう。
仮に、今日のように途中で走る力がなくなったとしても、ゴールにはたどり着こう…。
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2度目のたいない高原マラソンで大苦戦(前編)

2018-09-09 20:22:44 | RUN
今日は、新装なった「たいない高原マラソン大会」の日。
走るコースは、昨年と同じ、胎内スキー場脇ロッジ発着のハーフマラソンにエントリー。

とても厳しいタフなコースで、とても厳しい結果となってしまった。
昨年に比べ、17分も遅い、2時間14分台で、歩くようにしてゴールにたどり着いた。

たいない高原マラソンは、昨年初めてスキー場前発着の新コースで行われた。
激坂アップダウンのすごいコースである。
一昨年までのコースと違うだけでなく、運営の仕方も大きく変わったし募集期間も短かったので、昨年は参加者が少なかった。
今年は、大会時期を11月から2か月早くし、ほかにウオーキング等も入れたので、参加者が大変多くなった。

昨年の私は、60歳以上の参加者が12人と少なかったこともあって、がんばって走ったら、3位になって賞状をもらうことができた。
走ることでは、人生初のことであった。

今年は、その範疇に30人の参加があり、レベルも高くなった。
目標は、昨年の経験があるし、なんとか1時間57分という昨年の記録を上回りたいと思った。

ただ、不安は練習不足と体調不良。
今夏は猛暑の中であったが、8月20日までは、週に2回走ることができていた。
それ以降、断続的な大雨で練習が不足していたところに、身近での訃報があり、埼玉で過ごしていた。
先日まで埼玉にいたあの期間は、明らかに練習不足。
2,3日前にようやく新潟に戻ってきたのだが、埼玉での不安定な生活から変わったせいか、逆にちょっぴり体調不良。
精神的にもきつくて、今回の参加をどうしようかとも迷ったりもした。
新潟に戻ってからは、特におなかの調子がよくなく、1日3回トイレに行く始末。
今朝も、2回トイレに行ってから、会場に出発した。


今日は、午前中雨の予報で、弱い霧雨。
幸い、スタートの8時30分の頃には雨は降っていなかった。
大会が一新して、さらに9月の開催となったので、ほかの大会でもよく会う同世代のSNさんやSIさんたちが出場。
「どんなコースなんだ?」と盛んに聞かれた。
去年の経験がある私は、えらそーに「最初から上りがきつい。その後一気に下ってそこから一気に上って頂上まで行くと、後半の川沿いの道まで今度は一気に下って行くという、ハードなコース。」などと答えていた。

整列場所は、10kmを40分以内で走れる人・60分以内で走れる人・60分以上かかる人」の3段階。
私は、2グループ目からスタート。
無理して最初から飛ばす気はなかったし、大して速いスピードを出した覚えはないが、SNさんやSIさんを尻目に、先行する形となった。

序盤は、ずっと上りが続く。
今、去年と今年のタイムを比べてみると、だいたい同じようなものであった。
しかし、ずいぶん苦しく感じたのである。
それは、昨年はなかった「陽射しの強さ」が、この前半の上りの時には強く感じられたことであった。
だから、去年は他者の息づかいの荒さを気づかう余裕があったのだが、今年は自分の呼吸が乱れているのが分かった。
6kmあたりでSNさんが、7kmあたりでSIさんが、下りを利して私を抜いて行った。
私は、苦しさが先立ち、ついていくことはできなかった。
一気に下ったあとは、地獄の激坂が始まる。
3kmほどの間に100mの標高を一気に上る。
SIさんは、きつい上り坂は歩く、と決めているようだ。
「先に行って。」と言う。
「後で抜いてもらうよ。」と答える。
抜きはしたものの、ここで、自分の脚の元気が一気になくなった。
昨年よりもそんなにタイムは落ちていないのだが、脚の力がどんどんなくなっていった。
なんとかコースの頂点に到達した。
あとは、勢いをつけて降りられるはずだったが…、とても速いスピードは出せない。
去年は、下るときにキロ5分を切って楽に走れたのだが、今年は重い。
5分台の後半でしか走れない。
下るのもきつく感じていた。

やはり、今日は、体調が自分の感覚ほどに整っていなかったのに、前半思った以上にがんばりすぎてしまったのだろう。
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今季最高の試合!~ホーム岐阜戦~

2018-09-08 23:21:11 | アルビレックス新潟

サッカーJ2リーグ第32節。
ホームFC岐阜戦。
沈みがちな気持ちを明るくしてくれるような試合を見せてほしい。

しかし、だ。
今回の一戦は、J3への降格圏のすぐ上での勝ち点をめぐる戦い。
アルビレックス新潟は、黒星続きで6連敗し、前節引き分けて連敗を止めたものの、7戦連続未勝利の有様。
直近の11試合で、1勝8敗2引き分け。
対するに、FC岐阜は、現在8連敗中で、直近11試合でなんと1勝10敗。
こういう戦いを称して、「裏天王山の戦い」と言う人も多くいた。
果たして、どんな試合になるか。

試合が始まると、岐阜も新潟も相手ボールに対する寄せが速い。
そして、相手の守備の裏をとろうとする動きが鋭い。
岐阜も、連敗中とは思えない鋭い出足で、前半の始まりは、どっちに転ぶか分からない展開だった。

しかし、今日の新潟の選手たちの動きは違う!
速い相手の動きについていっている。
球際に厳しく行っている。
複数でプレスをかけている。
だから、相手のパスコースを消すと同時に、厳しくボールを奪いに行っている。
勝利へのすばらしい気迫が感じられた。
このような動きは、練習から厳しく追求していないとできないものだ。
こういうサッカーを見たかったのだ。
ただ、3月までは、前半はこのようなよい動きを見せながら、先制されて負ける試合もたくさん見てきた。
先取点がほしい!
そう思っていたら、17分過ぎ、河田が先制ゴール。
そこから、一気に新潟が押し込む形が増えた。

1点じゃダメ、追加点がほしい。
そう思っていたら、35分、河田が追加点を決める。

2点は危ない点差と言うから、前半のうちにもう1点ほしい。
そう思っていたら、河田が3点目を決めた。
すごい。河田、前半だけでハットトリックだ。


今日は、河田がフィニッシャーになってはいるが、そこまで攻め込む形が作れているからだ。
チーム全員で守備に、攻撃にかかわっているのがよくわかった。
後半も、このままで、さらに追加点を、と祈る。
すると、後半開始早々、5分も過ぎた頃、攻め込んだ新潟が、最後にシュートを決めたのは、戸嶋祥郎だった。
筑波大出のルーキーが、やっと初得点を決めた。

そして、ここまで様々な貢献を果たしていたのが、大ベテランとなった田中達也だった。
自ら動き、チャンスを作り、ピンチではボール奪取にこだわってまとわりつく。
すばらしい動きだった。
大差となったこともあり、ケガから復帰の小川と交替する。
5点目を決めたのは、その小川だった。
まだ、試合は後半の半分にさしかかっていたところだが、ここで勝負は完全に決まった。

あとは、相手をゼロでおさえるだけ。
試合終了。
5-0で完勝。


最高の気分であった。
攻守にわたって、積極的な選手たち。
最後まで走りぬく、こういう姿を見たかった。

ヒーローインタビューには、ハットトリックの河田と初得点の戸嶋。

新潟の応援をしていた場内の観衆たちは、皆、心から喜んでいた。
抱き合っている人たちだっていた。
3月以来のホームでの勝利だからね。

さて、今日のような積極的な試合をこれからも見せてほしいな。
そうすれば、こんな順位にいるはずはなかったのになあ。
まあ、今夜は、勝利の余韻にしっかり浸りながら眠ろう。
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想定外

2018-09-07 22:45:30 | 生き方
激動の1週間が過ぎ、新潟に帰ってきた。
義兄という関係の近い人の急逝。
想定外であった。
この1週間の前半は、以前、ここで「激動の4日間」と書いたが、文字通り激動の日々だった。
命ある存在だから、人はやがてその人生を終える時が来るということや、いつ、どのような形でそれが訪れるかわからないということなどを、義兄の死を通じて、改めて確認した。

ただ、この1週間の後半は、想定外の急逝は、このような個人的な形だけでなく、天災によってもたらされる場合も十分にある、ということをも考えさせられた日々でもあった。

葬儀の終了後、ひと足早く息子だけ帰ってきたが、早く帰れてよかった。
もし、遅くなったら、その日の夜は台風21号が通過するという日だった。
家の様子を見てもらうことができた。
ただ、そんな思いとは別に、勢力の強かったこの台風21号によって、関西を中心に、7人が死亡している。
亡くなった方々にとって、想定外の台風であり想定外のことが起こってしまった結果であろう。

そして、埼玉にいた私たちの中で、実の兄を亡くして夜よく眠れない私の妻は、昨日の未明に微妙な揺れを感じたそうだ。
(私は、感じずに眠っていたが…。)
妻が感じたその揺れこそが、今回の北海道で震度7を観測した地震によるものだった。
厚真町の土砂崩れでは、大きな被害が出ている。
たくさんの人家が土砂に飲み込まれ、合わせて30人以上の多数の死者や安否不明者が出ている。
震度7という大きな揺れ、そしてあのように大規模な土砂崩れが起こるとは。
想定外の規模の大地震だったことであろう。

地震、風水害などの天災、病気や事故、いつ、いかなるときに、命が脅かされるか、本当にわからない。
日常から、様々なことを想定しながら、事前にできる対策や予防策を万全にする。
「想定外」を少しでも「想定内」にして対応していくほかはない。

ただ、それにしても、一人の人間ができることは限られていて、ちっぽけな気がしてならない。
そんな思いを抱く、昨日今日である。
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バーベナの花が咲く

2018-09-06 21:53:24 | 草木花
「花は咲く」という歌がある。
ご存じのように、東日本大震災の復興応援の歌だ。
ただ、この歌は、歌詞全体を見ると悲しみからの立ち直りの意味はあまり感じられない。

花は咲く。
人の命がなくなっても、関係なく。
それを感じていた。

今回亡くなった義兄の家の前には、一面バーベナが葉を広げ、あちこちに花が咲いていた。

だいたいは紫色なのだが、白花もあった。

以前、その花の一部を分けてもらってきたが、一年草だけに雪の冬を越すと、次の年には枯れてしまい残念だった。
しかし、義兄の家のバーベナは、毎年元気に葉を広げ、花を咲かせていた。

そして、それは、今日も…。
花は咲く。
花は咲き続けている。

のこされた人間たちも、その花のような強さをもち、日々過ごしていけるといいと思う。

ネットに載っていた、とある花紹介のページを見ると、バーベナは「9月6日の花」とあった。
偶然だが、たまたま今日、面白い一致だった。

そこに書いてあった、白花の花言葉は、「私のために祈ってください」だそうだ。

義兄に祈りを捧げよう。





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生の喜びを感じながら走る

2018-09-05 22:11:47 | RUN
埼玉の滞在も6日目となった。
まずは葬儀を無事に終わらせることが一番の命題だった。
葬儀が終わって、かえってやるべきことがランダムに多いというのが、現実の問題だ。
それは、私よりも当事者の度合いが高い妻の方が、はるかに上回る。
そばで見ていていつもそう思ってしまう。

夕方、暗くなり始めたころ、様々な厄介ごとたちを消し去ってしまいたい気分になり、久しくしていなかった走りに出た。
30分ほど軽く走ろうと思った。
いざ走り出すと、新潟にいたときにもカメラ大雨などで走れなかったから、走りに出たのは10日ぶりくらいだった。
なんと足が重いことだろう。
リズムも悪いし、疲れている。
それでも、汗が大量に流れ、顔からしたたり落ちていくのが心地よい。
それは、好きなことをしているから。
それは、したいと思ってしたいことができるから。
それは、そうやって生きることができているから。

生の喜びを感じながら生きる。
こういう日々を大切にしながら生きたいと改めて思った。

……30分ほど知らない道を走ったらを、帰路はプチ迷子になってしまった。
まあ、道の前方が開けたら、すぐに帰り道は分かってホッとしたけどね。
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まずはお互い元気に生きていかなくちゃ、ね

2018-09-04 22:16:49 | 生き方
今回の突然のできごとで、様々なことを考えさせられている。
亡くなった義兄は、3つほど年上であった。
健康に関しては、特に問題がなく、医者通いもしていなかった。
これは、50代なかほどで亡くなった私の父と共通する。
なのに、突然命の炎が消えてしまう。
そんなこともあるのだということを、改めて思い知らされた気がする。
齢の近い、そして関係も近い人が亡くなっただけに、さらにそんな思いが強くなる。

そしてまた、きょうだいのつながりということについても考えた。
妻は二人きょうだい(兄妹)であったが、私も二人きょうだい(兄弟)である。
私は新潟県、弟は千葉県に居を構えている。
ここ数年は、めったに会わなくなっている。
それが、今回、都合をつけて、埼玉まで駆け付けてくれた。
しかも、夫婦そろって。
ありがたいなあと思った。
ただ、兄弟なのに、これからあと何回会えるのだろうか、なんてことも、
考えるようになってしまった。

兄弟といっても、いったい何年一緒に時間を過ごしたのだろう?
私が大学に行って家を離れた時、弟は14歳だった。
そう考えると、わずか15年ほどだったということがわかる。
それから、もう約40年!
だが、血のつながった兄弟であることは変わりがない。

さて、本当にあと何回、なんて考えるより、まずはお互い元気に生きていかなくちゃなあ……。
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疾風怒濤の4日間が過ぎようとしている

2018-09-03 20:32:37 | 生き方
前回のエントリーは、「まさか…」だった。
人生生きていると、さまざまな「まさか」が起こる。

数日前まで、新潟は酷暑や大雨など、天候不順で、全国に困った現況のニュースを提供していた。
そのたびに、「埼玉のおじちゃん」(byうちの娘)は、うちの娘や本人の妹(わが妻)を心配して、よく電話をくれていたのだった。

今回、かつて共に学んだ仲間の集まりが所沢であると妻がいうので、
「たまにはいってらっしゃい。」と、快く送り出した私だった。
「お兄さんによろしく。」と、言葉を添えて。
所沢に行く前に実家に寄る。
いつも心配してくれる埼玉のおじちゃんこと妻のお兄さんに感謝の気持ちを伝えてほしいと思ったのだった。

それが…
午後3時半前、急に妻から電話がかかってきた。
「兄が亡くなっていた。」と。

まさか…。

数日前にも電話があって、元気だと話していたはずだ。

なぜ?
どうして?

………
自ら望んだわけでもなく、事件に巻き込まれたわけでもなく、突然命の炎が消えた、としか言いようのないものだった。

しかし、それはあまりにも突然だった。
遠く離れて暮らしている兄妹が、久しぶりの再会をこのような形で果たすことになってしまうとは、なんということなのだろう。
信じられない。

知らせを受けて、諸準備を急いで整え、娘と共に車に乗り込めたのは、2時間以上たってからのことだった。
途中で仕事先の息子を拾い、一路埼玉に向かったのであった。


あれから3日が過ぎ、今日、一連の儀式を終えた。
疾風怒濤の4日間だった。
ブログの更新に当たる時間も、精神的な余裕も、まったくもてないまま、毎日が過ぎた。

しかし、今でも信じられない「まさか」の渦中にいるような思いのまま、今日が終わろうとしている……。
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