5月の初め
「『三和土』をどう読むか知っている?」と聞かれた時、私は「たたき」と読んだ。
「君は『たたき』って読めるんだ!」
「そう、どうしてだわからないけど、読めるのよ。」と私。
5月の下旬
「宮沢賢治記念館」で、賢治の原稿をみていると、「苹果」という単語があった。その横に「りんご」とルビがある。
「へぇ、これは『りんご』と読むのかぁ。」…「りんご」は「林檎」しか知らない私には、新鮮だった。
言葉を獲得するのは若い時がいい。
自然と染み込んだ、若いときの知識は一生ものだと思う。
今、折角こうやって覚えたつもりの「苹果」も、きっと数ヵ月後には私の記憶からは遠のいているだろう。
「『三和土』をどう読むか知っている?」と聞かれた時、私は「たたき」と読んだ。
「君は『たたき』って読めるんだ!」
「そう、どうしてだわからないけど、読めるのよ。」と私。
5月の下旬
「宮沢賢治記念館」で、賢治の原稿をみていると、「苹果」という単語があった。その横に「りんご」とルビがある。
「へぇ、これは『りんご』と読むのかぁ。」…「りんご」は「林檎」しか知らない私には、新鮮だった。
言葉を獲得するのは若い時がいい。
自然と染み込んだ、若いときの知識は一生ものだと思う。
今、折角こうやって覚えたつもりの「苹果」も、きっと数ヵ月後には私の記憶からは遠のいているだろう。