「7月7日は、興福寺三重塔内に安置されている窪弁財天像と国宝三重塔の内部が拝観できる」との情報を得ましたので、行ってみました。
開扉は午前9時とのこと。
9時半頃に三重塔に着きました。
しかし、柵が閉まっていて塔のすぐ近くには近づけません。
どうやら午前10時からの法要が終わってから柵内でお参りができるようです。
周りの人の呟きを聞くと、私と同様、9時から拝観できると思ってやってきた人が多いということがわかりました。
柵外から撮影しました。それは許されているようです。
東の扉
弁才天坐像とその諸尊(十五童子)
テントの中の黒い木の箱はロウソク台です。
南の扉
微かに千体仏(らしき絵)が見えました。
南西の角から見た西扉
北扉
微かに千体仏の絵が見えました。
10時からの法要を待つ人が増えてきました。
今夏初めてのセミの声を聴きました。
手前の左の木がナラノヤエザクラです。
来年の春にはこのサクラを見に来よう!と思いました。
瓦
キノコ
カタツムリ
10時近くになったようです。三人の僧侶が石段を下りて来られました。
僧侶が塔内へ向かわれます。
一般客も柵近くへ進みました。
読経が始まりました。
風が心地よく通っていました。
日陰に立っていましたから、それほど暑さは感じません。
三重塔の向こうに南円堂の屋根が見えます。
西扉から読経の良い声が聞こえてきました。
モミジの小さな種がいっぱいあるのに気が付きました。
11時頃、法要が終わりました。
焼香が始まりましたが、かなり長い人の列です。
人が列が短くなるのを待つ間に、私はちょっと商店街へ行きました。
ここから南都銀行本店の大きな文字が見えることに気が付きました。
南都銀行本店移転に伴い、あの文字ももうすぐなくなるのでしょうか
しばらくして三重塔に戻りました。
予想通り、人の列は短くなっていました。
12時以降の拝観者は、きっと並ばずに焼香できるでしょう。
三重塔(さんじゅうのとう)
【年代】 鎌倉時代
【指定】 国宝
【構造】 三重塔婆、本瓦葺
【規模】 高さ19.1m、初層:方三間4.8m
【公開情報】 7月7日のみ内陣公開
康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮の皇嘉門院聖子が建て、治承4年(1180)に焼失し、間もなく再建されたと言われています。北円堂と共に興福寺で最古の建物。木割が細く軽やかで優美な線を醸し出し、平安時代の建築様式を伝えます。
初層内部の四天柱をX状に結ぶ板には東に薬師如来、南に釈迦如来、西に阿弥陀如来、北に弥勒如来を各千体描き、さらに四天柱や長押(なげし)、外陣の柱や扉、板壁には宝相華文(ほうそうげもん)や楼閣、仏や菩薩などが集う浄土の風景、貴族風の人物などを描きます。なお、明治時代の神仏分離令(廃仏毀釈)以降、現在の内陣(東側須弥壇)には、かつて興福寺子院であった世尊院の弁才天坐像とその諸尊(十五童子)を遷して安置されています。
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https://www.kohfukuji.com/event/benzaitenku/より引用
年中行事 弁才天供(べんざいてんく)
興福寺の伽藍の最も西側にある、少し離れた場所に三重塔があります。繊細で、いかにも女性の優しさが漂う美しい小塔です。この塔は、崇徳天皇の后妃・皇嘉門院聖子の発願によって康治2年(1143)に竣工しました。治承4年(1180)、平重衡の南都焼打によって焼失しましたが、鎌倉時代前期に再建。北円堂と並び、現在に残る最も古い建造物です。初重内陣は、中央の柱の4天柱に組まれた仏壇中心に方柱が立ち、方柱と四天柱の間にはX形に縦板があり、それぞれに千体仏が彩色されています。これは興福寺の三重塔独特のもので、他に例はありません。
さて、明治時代の神仏分離令に伴う廃仏毀釈の風潮が治まり始めた頃、三重塔に新たに御像が祀られます。興福寺の旧塔頭であった世尊院に祀られていた八臂の弁才天坐像のその諸尊(十五童子)です。弁才天は元の名をサラスヴァティー(Sarasvati)と称し、川の女神でした。やがて学問・智慧・音楽を司る女神となり、中国で美音天・妙音天などと訳されました。日本では吉祥天と混同されたため、福徳・財宝の神とされ室町時代中期頃より七福神の一つに数えられるようになりました。そのため、通常「弁財天」と書かれます。
興福寺南円堂の建立時、弘法大師空海が竣工の無事を祈り、天河大辨財天社に参籠したと伝えられています。そのとき宇賀弁才天を感得し、その神を興福寺に窪弁才天として勧請しました。また、南都に七弁才天を勧請し、その際に供物に餅飯を整えて7ヶ日の布施を施したことから、餅飯殿町の名がおこったということです。空海は藤原冬嗣と親交があったという点からも、十分想像できる言い伝えであります。
興福寺では『多聞院日記』にも見られるように、学問遂行を祈って熱心な弁才天信仰が続いていたことが分かります。現在は7月7日の午前10時より法要を厳修し、三重塔の年に一度の特別開扉を行っています。蝉の声を聞きながら、是非お参りにお越し下さい。
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国宝 三重塔(さんじゅうのとう)
康治2年(1143)に崇徳(すとく)天皇の中宮の皇嘉門院(こうかもんいん)聖子が建て、治承4年(1180)に焼失し、間もなく再建されたと言われています。北円堂と共に興福寺で最古の建物。木割が細く軽やかで優美な線を醸し出し、平安時代の建築様式を伝えます。
初層(しょそう)内部の四天柱(してんばしら)をX状に結ぶ板には東に薬師如来、南に釈迦如来、西に阿弥陀如来、北に弥勒如来を各1000体描き、さらに四天柱や長押(なげし)、外陣(げじん)の柱や扉、板壁には宝相華文(ほうそうげもん)や楼閣(ろうかく)、仏や菩薩などが集う浄土の風景、貴族風の人物などを描きます。なお、明治時代の神仏分離令(廃仏毀釈)以降、現在の内陣(東側須弥壇)には、かつて興福寺子院であった世尊院の弁才天坐像とその諸尊(十五童子)を遷して安置されています。
拝観案内 毎年7月7日の弁才天供のみ開帳