奈良の「春日若宮おん祭」は、五穀豊穣と万民安楽を祈るお祭りで、今年は第876回でした。
春日若宮おん祭は、12月17日午後0時に奈良県庁前広場を出発する「お渡式(おわたりしき)」が有名で、子どもの頃何度も見に行きました。
(私たちは「お渡り」と呼んでいたように思います。)
今年は、17日午前0時からの「遷幸の儀(せんこうのぎ)」と1時からの「暁祭」を見に行こうと思いました。
毎年、真夜中の寒さに耐える気力がなくて、ずっと諦めていたのですが、今年は12月上旬が暖かかったからでしょうか、何だか行く気になったのです。
12月16日(金)の夜22時半頃、三条通の一角で集合した私たち7人は、春日大社を目指して歩き始めました。
たくさんの人が東へ向かって歩いていました。みんなの目的は「遷幸の儀」。
暗い中、一の鳥居を過ぎると、砂利ではなく砂を踏みしめている感覚です。
馬が走るために砂がびっしりと敷き詰められていました。
御旅所の前を通ります。人は誰もいないので、しーんとしていました。午前1時からは、ここで「暁祭」が行われます。
16日23時頃の御旅所
23時頃、二の鳥居の手前、人の列が西方向に延びています。その最後尾に私たちも並びました。
以前来たことのある人は、「前は二の鳥居の向こうの方で並んだのに…。今年は人が多いということだね。」と言っていました。
17日が土曜日といういことと、「おん祭」がNHKのテレビで放送されたことが、例年よりも観光客が多い要因かもしれません。
参道の両端に一列に並んで、お喋りをしながら「遷幸の儀」を待ちます。
星がきらきら煌めいています。
マイクを持った係員が、「若宮様をお旅所へお遷し申しあげる行事は撮影禁止です。灯りはすべて消してください。懐中電灯も使わないでください。」「携帯電話の電源は切るかマナーモードに…。」「トイレは23時30分になったら、消灯しますので、早めに…。」と注意事項を言いながら、歩きます。
それでも23時45分ごろに「トイレに行きたいのですが…。」という見物人がいました。
係の人から「トイレは真っ暗ですよ。」と言われても、トイレに向かったのでしょう、ほどなく、参道脇の溝に足を踏み入れたのでしょうか、バシャッという水を連想させる音が響きました。
0時に若宮さまが若宮本殿からお遷りになられますが、笛の音が若宮本殿の方から聞えてからずい分経って、私たちの前をお通りになりました。
道を清める松明の細かく赤い火が参道の両側に点々と落ちています。これが唯一の明りです。
その後ろを、たくさんの神官が榊の枝で若宮さまを囲って、お遷しします。
口々に間断なく「ヲー、ヲー」という警蹕(みさき)の声を発しています。厳かなというか、不思議な音と雰囲気です。
その後ろに巫女さんや楽人がお供をします。楽人たちが奏でるのは、道楽(みちがく)の慶雲楽(きょううんらく)。
若宮さま一行と私たちよりも早くから並んでいた人たちが通り過ぎた後を、暗闇の中、御旅所へ向かって歩いて行きます。
人混みで足下が全く見えません。流れに任せて歩いている感じです。
参道だから段差がないので、こける心配はそれほどありませんが、すごい人混みですので、高齢者にはちょっと無理かもしれません。
数日前、皆既月食を見た時は凍えるような寒さの中だったのですが、ほとんど寒さを感じることなくて、余裕をもって輝く氷輪を仰ぎ見ることができました。
人の波の中しばらく歩くと、御旅所の前辺りに着きました。
もしかしたら中へ入れないかもしれない…と思うほど、たくさんの人が並んでいます。
が、「右はいっぱいになってきたから、今度は左に入ってもらおう。」という係の人の声があり、私たちから左側へ誘導され、ラッキーなことに、若宮様の御殿の正面で午前1時からの 「暁祭」を見ることができました。
大きな2個の太鼓が打ち鳴らされます。この太鼓の音を聞くのは私は初めてでした。野外で聴くのにちょうどいい音です。
太鼓を眺めていると、それぞれ三つ巴と二つ巴、龍と鳳凰の彫り物で、全く同じ太鼓ではないと知りました。
オレンジ色の照明とかがり火の中、神官たちが、リレーのバトンのように手渡しで海川山野の品々を献じます。
御殿前で奉じる宮司の祝詞が、かすかに聞えてきます。
巫女さんたちが優雅に舞を奉じ、笛や琴の音が春日野に静かに鳴りわたり、これぞ幽玄の世界。
その後、神官たちが、リレーのバトンのように手渡しで海川山野の品々を下げ、「暁祭」は午前2時頃に終わりました。
最初は全く寒さを感じなかったのですが、途中からは足の指先がジンジンと冷えてきました。
でも、余裕の寒さでした。
17日はこれだけですっかり疲れてしまい、他は何も見ずに過ごしてしまいました。
以下はhttp://www.kasugataisha.or.jp/onmatsuri/より引用させていただきました。
※春日大社公式HP
若宮神社とおん祭
春日大社の摂社である若宮の御祭神は、大宮(本社)の第三殿天児屋根命と第四殿比売神の御子神であり、その御名を天押雲根命と申し上げます。平安時代の中頃、長保五年(1003年)旧暦三月三日、第四殿に神秘な御姿で御出現になり、当初は母神の御殿内に、その後は暫らく第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神と仰がれていました。
長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢饉が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり、保延元年(1135年)旧暦二月二十七日、現在地に大宮(本社)と同じ規模の壮麗な神殿を造営しました。若宮の御神助を願い、翌年(1136年)旧暦九月十七日、春日野に御神霊をお迎えして丁重なる祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まりです。
御霊験はあらたかで長雨洪水も治まり晴天の続いたので、以後五穀豊穣、万民安楽を祈り大和一国を挙げて盛大に執り行われ、八百七十有余年にわたり途切れることなく、今日に至ります。
12月15日
午後1時 大宿所詣(おおしゅくしょもうで)
午後2時半・午後4時半・午後6時 御湯立(みゆたて)
午後5時 大宿所祭(おおしゅくしょさい)
12月16日
午後2時半頃 大和士宵宮詣(やまとざむらいよいみやもうで)
午後3時頃 田楽座宵宮詣(でんがくざよいみやもうで)
午後4時 宵宮祭(よいみやさい)
宵宮祭は、翌17日に行われる遷幸の儀(せんこうのぎ)に先立って、若宮神前に“御戸開(みとびらき)の神饌”を奉り、祭典の無事執行を祈る行事で、この後若宮本殿は白の、御幌(とばり)で覆われる。
これに先立って午後2時からは大和士が流鏑馬児(やぶさめのちご)と共に神事参勤の無事を祈って若宮社前へ御幣を奉り拝礼を行う宵宮詣の事がある。続いて午後3時からは田楽座も本社と若宮で田楽を奉納する。
本来の素合御供の復興
明治維新以前まで、お旅所の神楽所に献じられたのが故実で、紅白の紙を貼った四角い台に檜葉を差込み、餅と蜜柑を交互に差し立てたものである。平成15年より復興された。
12月17日
午前0時 遷幸の儀(せんこうのぎ)●若宮本殿よりお旅所へ
若宮様をお旅所へお遷し申しあげる神秘の行事。写真撮影は禁止です。
若宮神を本殿よりお旅所の行宮(あんぐう)へと深夜お遷しする行事であり、古来より神秘とされている。現在も参道は皆灯火を滅して謹慎し、参列する者も写真はもちろん、懐中電灯を点すことすら許されない。これらはすべて浄闇の中で執り行われることとなっている。神霊をお遷しするには、当祭においては大変古式の作法が伝えられ、榊の枝を以て神霊を十重二十重にお囲みして、お遷しするという他に例を見ないものである。全員が口々に間断なく「ヲー、ヲー」という警蹕(みさき)の声を発する。又、楽人たちが道楽(みちがく)の慶雲楽(きょううんらく)を奏で、お供をする。
午前1時~午前2時 暁祭(あかつきさい)●於 春日野お旅所
お旅所へお遷りの若宮様に朝の御饌をお供えし神楽を奉納する
満天の星空のもと寒気が一入身にしみる午前1時、庭燎に火が入って暁祭がおごそかに執行される。 遷幸の儀の際、行宮の前には神を迎えた事を示す植松(うえまつ)が立てられ、ご殿の中央には瓜灯籠が幽かな光を投げかけているその神前には、海川山野の品々が献じられる。続いて旧祢宜大宮家より古式による「素合の御供(すごのごく)」が奉られ、そして、宮司の祝詞に続いて社伝神楽が奏せられる。清らかな歌声と鼓や笛の音が春日野に静かに鳴りわたっていく。
本来の宵之御供の復興
現在宵宮祭で献じられる神饌は丸物神饌で、本来のものは勅祭「春日祭」の御戸開ノ儀で献じられる高杯4本立の「八種神饌」であった。平成15年より復興された。
午前9時 本殿祭(ほんでんさい)●於 春日大社本社若宮
若宮おん祭の無事斎行を祈る祭典
古くは「御留守事(おるすごと)」と申し上げ春日大宮若宮へ「御留守事の神供」を奉る行事で相嘗祭(あいなめさい)に相当する。
午後0時〔奈良県庁前広場出発〕 お渡式(おわたりしき)
午後0時50分頃〔於興福寺南大門跡〕 南大門交名の儀(なんだいもんきょうみょうのぎ)
古来お渡り式は興福寺内を出発して一の鳥居迄を下の渡り、一の鳥居よりお旅所迄を上の渡りと称している。下の渡りの中心的な行事がこの交名である。祭礼の主催権を持つ興福寺への敬意を表し、またお渡り式に遺漏が無いかを改めるこの式は現在、旧南大門跡に衆徒の出仕をみて執行されている。
特に興福寺より出仕した役柄は名乗りの事があり、競馬は「○○法印(又は法眼)御馬候」などと名乗り、馬長児(ばちょうのちご)は僧位僧官を名乗る。これらはいずれも大童子(だいどうじ)が行う。また大和士(やまとざむらい)は御師役が懐中している交名を声高らかに読み上げるなど古式床しい行事である。読み違いや、不作法があると、再度引き戻してやり直させるという故実もある。
午後1時頃〔於-ノ鳥居内影向松〕 松の下式(まつのしたしき)
一の鳥居の内、南側の壇上に「影向の松(ようごうのまつ)」がある。この松は能舞台の鏡板に描かれている松といわれ、春日大明神が翁の姿で万歳楽を舞われたという由緒ある場所である。 ここを通過する陪従(べいじゅう)・細男(せいのお)・猿楽(さるがく)・田楽(でんがく)は各々芸能の一節や、所定の舞を演じてからでないと、お旅所へは参入できない事になっている。 松の下を通ってお旅所へ参入した十列児(とおつらのちご)は馬より降りて、装束の長い裾を曳きながら馬を曳かせて、芝舞台を三度廻り、馬長児(ばちょうのちご)は馬上のまま三度舞台を廻って退出の時、ひで笠に付けた小さな五色の紙垂を、大童子(だいどうじ)が神前へ投ずるという、珍らしい所作などがある。
それにもう一つ有名であるのは「金春の埒(ちち)あけ」と言われるもので柴の垣に結びつけた白紙を金春太夫がお旅所前で解いてから祭場へ入るというもので「埒があく」という言葉もこれからおこったと伝えられている。 尚正午過から松の下において興福寺ゆかりの宝蔵院流槍術の型奉納が家元により行われる。
頭屋稚児の復興
興福寺の学侶より選ぶ二人の稚児で、松の下の行事を検知する重要な役目がある。その際は神事のため、真赤な小袖に白い上衣を着し畏頭姿となった。明治初年の廃絶より現在は神職が検知しているが、平成15年をもって130年ぶりの復興となった。
午後2時頃〔-ノ鳥居内馬出橋よりお流所勝負榊まで〕 競馬(けいば)
午後2時30分頃〔-ノ鳥居より馬出橋辺まで〕 稚児流鏑馬(ちごやぶさめ)
午後2時30分頃 お旅所祭(おたびしょさい)●於 お旅所
行列は各々古来の仕来りを守りつつ進み、最終は江戸時代、大和国内の大名が出仕した大名行列です。
この行列も奈良独特の姿を伝零し、「ヒーヨイヤナ」 の掛声で有名なものです。以上総勢千余名が古式に則り都大路を練り歩きます。
午後11時 還幸の儀(かんこうのぎ)●お旅行より若宮へ若宮様に御殿へお帰りいただく神秘の行事。写真撮影は禁止です。
遷幸の儀と還幸の儀の間は二十四時間以内でなければならない事になっている。つまり二日間に亘ってはならないのである。だから遷幸の儀は17日午前零時過であり還幸の儀は17日午後11時頃から開始され、18日午前零時にならぬうちに若宮神社へお還りになるのである。
お旅所行宮において神秘の行事ののちご出発となる。遷幸の儀にくらべ、お還りになる還幸の儀の道楽(みちがく)(還城楽(けんじょうらく))、つまり旅情をお慰めする音楽は、テンポもやや早く軽やかなものとなる。
遷幸の儀と同じく大松明が道を清め、沈香の香りが漂う中を警蹕の声と共にお還りになる様子は江戸時代の郷土史家村井古道が、正に神代の昔にかえったような感動を覚えると書き残しているとおり、荘厳かつ神秘なもので他に例を見ないものである。
若宮紳社では、お還りを待ち受けている神人等によって待太鼓が打ち鳴らされ、その太鼓の音と微妙に溶け合った道楽のしらべにのって、若宮神は無事に元の本殿へとお鎮りになる。
その後、神楽殿で社伝の神楽が奏せられ、華麗な祭りの幕が閉じられるのである。