夏の昼間は暑すぎて、奈良の街を歩くことはできません。
でも、夜なら、歩けます。
奈良では7月16日(土)からライトアップされている…という情報を得て、出かけてみました。
奈良県観光情報
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/
ライトアッププロムナード・なら
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/contents/event.php?contents=0000003988&event=0000000002
旅館の人が、その旅館の宿泊客を案内しているという感じの集団と一緒になりました。
私も少し説明を聞かせてもらいました。
この辺りはいつも鹿の糞の匂いが強烈です
東大寺の公式ホームページ(http://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance8.htm)には、「お願い」として「鹿の糞尿の処理に困っています。鹿に手持ちの菓子などを与えないで下さい。」とあります。
南大門の辺りは特に観光客が多いので、鹿もたくさんいます。
鹿せんべいを与えている人はよく見かけますが、それ以外の菓子を与えている人はほとんど見かけません。
手持ちの菓子というのは、自分が持ってきた菓子ではなく、手で持って与える菓子という意味だとしたら、鹿せんべいはあの場では売るべきではないということになるのでしょうか。
鹿の糞は毎日石畳の上から取り除かれているのでしょうね。あまり古い糞はないように思いますから。
南大門の「大華厳寺」の扁額は、2m×5mのサイズだそうです。
440年前の筒井順慶と○○(←忘れてしまいました)の戦いの銃弾が南大門の柱に埋め込まれて残っているということを初めて知りました。
確かに銃弾が1つあります!!
東大寺南大門の仁王像は西側(向かって左側)が「阿(あ)形」で、東側(向かって右側)が「吽(うん)形」ですが、これは一般とは逆だそうな。
この南大門の金剛力士像は運慶の作です。
夏目漱石の『夢十夜』第六話「運慶が…仁王を刻んでいる…」は、私はこの南大門の仁王像をイメージします。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E6%85%B6#.E6.9D.B1.E5.A4.A7.E5.AF.BA.E3.81.A7.E3.81.AE.E4.BB.95.E4.BA.8Bより引用
運慶は、奈良市・興福寺を拠点に活動していた奈良仏師康慶の子である。長男湛慶が承安3年(1173年)生まれであることが、京都市・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の台座銘から知られ、運慶は12世紀半ば頃の生まれと推測される。
興福寺再興事業への参加
運慶の現存最古作は、安元2年(1176年)に完成した奈良・円成寺の大日如来像である。寿永2年(1183年)には、以前から計画していた法華経の書写を完成した。この法華経は現在「運慶願経」と呼ばれている(京都・真正極楽寺蔵および個人蔵、国宝)。経の奥書には、後に仏師として活躍することの知られる者を含む、名に「慶」字を用いる結縁者名が記されており、一門をあげての写経だったことがわかる。
治承4年(1180年)に平家の兵火により、奈良の東大寺・興福寺が焼亡する。興福寺の再興造像は、円派、院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する奈良仏師とが分担した。当時の中央造仏界での勢力にしたがい、円派・院派のほうが金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当することとなり、奈良仏師では康慶が南円堂の本尊を担当し、本家筋にあたる成朝は食堂の本尊を担当することとなった。
鎌倉幕府への接近
成朝は、なぜか食堂本尊の造像に専念せず、文治元年(1185年)に源頼朝の勝長寿院本尊阿弥陀如来像を造るため鎌倉に下向した。一方、運慶は文治2年(1186年)正月に興福寺西金堂本尊釈迦如来像を完成したあと、成朝の動向に連続するかのように、鎌倉幕府関係の仕事を開始する。その年5月3日には、北条時政発願の静岡県伊豆の国市・願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を造り始めている。またその3年後、文治5年(1189年)には、和田義盛発願の神奈川県横須賀市・浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を造っている。
東大寺での仕事
建久7年(1196年)康慶の主導で、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像(観世音菩薩、虚空蔵菩薩)と四天王像の造立という大仕事に携わるが、これらの像はその後大仏殿とともに焼失して現存しない。(うち、四天王像は模刻像が海住山寺、金剛峰寺などに現存する。)現存する大作としては建仁3年(1203年)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像を挙げねばならない。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。この功績により、同年の東大寺総供養の際、仏師として極位である法印を受けた。
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南大門を通って、大仏殿へ向かいます。
大仏殿
大仏殿の外の囲いの東西に毘沙門天(女の人の手の上に立っている、女の人の横にヒンズー教の僧の顔もある)と持国天の像があることを教わりました。この2体の像に気がつく人は少ないと思います。
毘沙門天
持国天
お月さまが東の山から出てきました。