川崎浮世繪ギャラリーの「SHO(笑) TIME! 戯画展」の後期、「歌川広景 江戸名所道外尽」を觀る。
歌川廣景(うたがわ ひろかげ)は、幕末の安政六年(1859年)正月から翌年の萬延元年(1860年)八月までのわずか二年八ヶ月間のみ名前が確認できる以外、生没年や本名、住まいなど一切不明の浮世繪師云々。
文久元年(1861年)に發表された「江戸名所道外尽」は、葛飾北斎の「北斎漫画」や「富嶽百景」のほか、初代歌川廣重晩年の傑作「江戸名所百景」の構図より戯れ繪化(パロディ)してゐることから、初代廣重の弟子だったとも推定云々。
件の戯れ繪全五十揃へを通覧して思ふに、「ただ下らん!」。
初代廣重の築き上げた江戸風景画の品格を“借景”に、人が不様に転倒してゐる様や、物が壊れたり、動物に物を掠め取られたり、釣り糸の先が髪に絡んで引っ張られたり、女性の下半身が狙はれたり、糞尿が撒き散らされたりと、いくらか定型化された構図で下劣な笑ひを誘わうとする。
(「御茶の水の釣人」 ※案内チラシより 以下同)
侍が不様を晒してゐる姿に、すぐそこまで迫った武士の世の終焉が反映されてゐて、そこに時事物としての面白さを辛うじて見出せるくらゐで、江戸の庶民文化が行き着くところまで行き着いた一例を見た氣分になる。
(「霞が関の眺望」)
女性の着物の裾が捲れてゐる猥画スレスレの“あぶな繪”などが數點含まれてゐるところに、武家政權の統制力低下が如實に現れてゐるわけだが、そのほか糞尿を題材にした數點のうちに、供を連れた裃姿の武家が道端の厠で“大”の用を足してゐる、「妻戀こみ坂の景」なる珍品がある。
供が露骨に鼻を覆ってゐる様以上に、厠の板壁に現代とまったく同じ卑猥な落書きが小さく、さり氣なく描き込まれてゐるところに、アレはこの頃から……、と意外な風俗的価値を見出して、初めて独り笑みせり。