喫茶 輪

コーヒーカップの耳

掃除と勉強

2016-02-13 17:46:22 | 
satoとfumiがやってきました。
fumiはお地蔵さんでお掃除のお手伝い。




satoはジーチに手伝ってもらってお勉強。
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「日本盛・煉瓦館」

2016-02-12 14:23:40 | 日本盛
同じ町内にあるのに、なかなか行く機会のない「日本盛・煉瓦館」、
久しぶりに行きました。
15年前に出版記念会をして頂いたところでもあります。






完食しました。
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『柳田國男 その原郷』

2016-02-12 11:19:48 | 宮崎修二朗翁
古い雑誌が入っていた古い段ボール箱を捨てようとしたら、家内が
「こんなのがあるよ」と。
底にへばりついていた紙片。

宮崎修二朗翁のお若い頃の写真が載っている切り抜きのコピー。
一枚はちゃんとどこかに保管しているはずだが、これも余分だからといって捨ててはいけません。もしかしたら無いかも。
この記事、何に載ったのでしょうねえ?
朝日新聞かな?神戸新聞?神戸新聞なら書いた人は有井基さんだろうな。
一度宮崎翁にお尋ねしてみよう。

ここに紹介されている本はこれです。

『柳田國男 その原郷』(朝日新聞社・1978年刊)
当時かなり話題になったそうです。
宮崎翁の地元の神戸よりも東京方面で。
地元の人は、とかく身近すぎて、その値打ちがわからないということが多いですね。

コピーの記事の終わりの方にこんなことが書いてある。
≪宮崎さんは、富田砕花、足立巻一氏らのやっている詩誌「天秤」の同人。実はこの本の前半部も、同誌に発表した「原郷―柳田國男アルバム」という特集が骨子になっている。「特集号は写真を中心にしたA5判の厚い本になりましたが、写真製版と印刷にお金がかかって、それを田辺聖子さんに助けてもらって…」≫
この田辺聖子さんに助けてもらっての内容、わたし翁からお聞きしてます。
どこかに書いておかなくてはならないだろうな。
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神戸詩人クラブ事件

2016-02-11 10:10:36 | アート・文化
『寺島珠雄 詩・エッセイ集』を読んでいて思った。
「神戸詩人クラブ事件」について少し書かれているが、やはり「あいまいのまま」ということが書かれている。
「事件当事者の小林さんがなぜ執筆しなかったのか、そこは全然わかっていない…」などと。
このこと一度書いておきましょう。
といってもわたしは全く当事者ではありません。
宮崎翁が『歴史と神戸』誌にかなりはっきりと書いておられるので。
まあ、その前(『歴史と神戸』97号)に落合重信さんが書いておられるのだが。
その落合さんの書かれたものを下敷きに宮崎翁が書いておられるのが、『歴史と神戸』266号(2008年2月)。
読みにくいでしょうから、興味のある人だけ二段クリックでどうぞ。





これが「神戸詩人クラブ事件」に関する最もハッキリと書かれたものでは?
宮崎翁もこれ以上は書けなかったのでしょうね。
しかし、文章の最後をこんな風に締めておられます。
「※能弁で、有名人志向癖があり、裏面工作に長けた小林は、例えば宮崎辰雄・神戸市長や土井芳子・神戸婦人団体協議会会長など有力者に依頼して兵庫県文化賞の推薦状を作成して、選考委員会に提出、富田砕花選考委員に見破られ、翌年再度の自薦(?)には、砕花も根負けして授賞に合意、それを機会に委員を辞任するという挿話を生むような人物だった。戦時中内務省警保局(特高を所管)官僚だった金井元彦や同じ内務官僚だった坂井時忠の兵庫県知事時代には、十指を数える委員の肩書を持っていた。」
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『愛子』

2016-02-10 16:36:13 | 本・雑誌
図書館でお借りしてきました。

佐藤愛子さんの『愛子』です。

1959年に発表された自伝小説です。
舞台は甲子園。
愛子さんが育った町です。
なぜ今これを読むかといえば、これがあるからです。

「今津歴史塾」でその辺りの話をお聞きするからです。
予習をしておこうと思ったのです。

この小説『愛子』には思い出があるのです。
いえ、佐藤さんと交流があったわけではありません。
わたしの長男と関連が。
長男が生まれたのは昭和48年です。
そして小説『愛子』がテレビドラマ化されたのが昭和48年でした。

わたしと家内はこのドラマを毎日見てました。
一緒に赤ん坊の息子も見ていました。
番組の始まりのタイトルバックに甲子園球場が写り、蔦の葉が風に揺れていました。
その蔦の葉がクローズアップされて、チラチラ揺れるのを息子はジッと目を凝らして見ていたのでした。なぜか強く印象に残っています。そのこと、家内もよく覚えています。
わたしたちの若き新鮮な日々の思い出です。
あのドラマは昼下がりでしたが、たしか月曜から金曜まで毎日だったと思います。
というわけで、大変懐かしいのです。
しかしドラマの内容はすっかり忘れています。
もう一度、あの頃を思い出して、この小説を読んでみようと思った次第。
わたし多分、佐藤愛子さんのものを読むのは初めてだと思います。
因みに、佐藤愛子さんには腹違いのお兄さんにサトーハチローさんがおられます。
お父さんは佐藤紅緑という有名作家で、『ああ玉杯に花うけて』はわたしも中学生ぐらいの時に読んで感動した覚えがあります。
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六車明峰さんテレビ出演

2016-02-09 14:50:10 | アート・文化
先月、明石のケーブルテレビに出演された六車さんから番組のDVDが送られてきた。

早速見せて頂いた。
最初は少し緊張気味だったが、すぐにいつもの六車さんに。








楽しい時間だった。
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寺島珠雄さんと小野十三郎さん

2016-02-09 09:19:29 | 
ちょっとマニアックな記事を書きますので興味のある方だけお読みください。
一昨日、寺島珠雄さんのことを書いた。

その冊子を読んでいて、「おっ」と思ったページが。
「小野十三郎作品の神戸もの二篇」というもの。
読みにくいでしょうが、興味のある方だけどうぞ。二段階クリックで。






初出は「現代詩神戸」178号 1996年12月ということだから、その号はわたしにもお送りいただいていると思うのだが、今ごろ驚いている。勉強をおろそかにしていたのだ。

なぜ驚くかと言えば、わたし「神戸っ子」に小野十三郎さんと宮崎翁のエピソードを書いた時にこれに関すること書いてます。2013年12月号に「小野十三郎」と題して。
二篇の神戸の詩に関することは書いてますが、その詩は紹介で来ていません。
これも興味のある方だけお読みください。リンクを貼っておきますので。
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「忘れ物」

2016-02-08 18:28:29 | 杉山平一先生
今日も詩誌「柵」を家探ししていたら、何十冊かが出て来た。
例よってパラパラと調べていたら興味深い記事が色々ある。
当時には感じなかったが、今となっては貴重なものも。
少しは知識が蓄積されてきているのかも知れない。
その中で今日は、1995年1月号に杉山平一先生の詩が。

「忘れ物」です。
これは覚えがあった。
『杉山平一全詩集』の上巻の巻末の方に載っている。
しかし微妙に違う。
やはり、一度発表してからも手を入れておられるのだ。


わたし、この作品、「柵」「全集」どちらにも目次に〇印をつけてました。
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クラブ見学

2016-02-08 15:48:57 | 将棋
今日は用海小学校のクラブ活動の日でした。
第6時間目ということで午後2時45分から3時30分まで。
45分間では将棋をじっくりやるには時間が足りませんが仕方ありません。
今日は3年生がクラブ見学にやって来る日。
4年生になるとみんな何かのクラブに入らないといけません。
ということで、いくつかあるクラブを3年生全員が先生に先導されて見学に回るのです。
将棋の教室にも可愛い子どもたちがぞろぞろとやってきました。
今の3年生は3クラスだそうです。
さて来年度は何人が将棋クラブに入るでしょうか?

あ、今日は5年生の一クラスが学級閉鎖ということで、出席人数が少なかったです。
わたしも帰ってきてうがい手洗いを念入りにしました。
一応、予防注射は受けてるんですけどね。
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寺島珠雄さん

2016-02-08 13:53:57 | 
終活を進めなければと思いながら、片づけものをしていると、思いがけなく出て来たものに目を奪われて時間を食ってしまう。なので遅々として進まない。
今日はこれ。

『寺島珠雄 詩 エッセイ集』
こんなのが有ったなんて!
1999年に発行。まだ甲子園にお住まいだった和田英子さんが発行人になっている。
先年お亡くなりになったが、何度か「輪」に来て下さったことがある。
それでわたしに送って下さったのだろう。
寺島さんはわたしお会いしたことがありません。
そして、この冊子、読んだ覚えがない。
申しわけありません、和田さん。
今読ませて頂いて、ただならぬ冊子だと気づきました。
詩もいいが、エッセイがいい。
素晴らしく切れ味のいい文章だ。
そして、足立巻一先生のお名前が度々出てくる。
中に「足立巻一 私誌」という一章があって興味深く読ませて頂きました。
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「箸袋」

2016-02-08 11:24:28 | 
先に書いた「柵」に挟まれていた栞、箸袋の件だが、
実はこんな紙片も挟まっていた。

詩の草稿だ。
タイトルも書かれていない。

  アイドルタイムに本を読む

  お客がさま見える

  しおりがはさまれ

  本は閉じられる

  しおりは箸袋だ

  “お手もと”と書いてある


推敲の跡もない、あわてて書きなぐったような草稿。
もっと書き足すつもりだったのだろうか、後ろがまだ空いている。
わたしは全く覚えていなかった。
後に作った短詩集『喫茶・輪』にも収録されていない。
似たものもない。
完全に忘れてしまっていたのですね。
これ、もし推敲してちゃんと作っていたらどんな詩になっていたのでしょうね。
終わりの行がなにかを思わせますが。
このままでは思わせぶりなだけだ。
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「出てゆく」

2016-02-08 09:35:35 | 杉山平一先生
そろそろ終活の準備を始めている。
で、雑誌を整理しようと。

昨日は詩誌「柵」を家のあちこちから集めてきた。「柵」は以前、一度かなりの量を処分したと思うのだが、

まだ探せていない場所があるので、もっとどこかにあると思う。
処分する前に一応パラパラとページを繰ってみる。
すると、けっこう栞が挟んである。

それが店の箸袋が多い。
「喫茶・輪」の箸袋だ。
昼定食が忙しかった頃のもの。1万枚単位で印刷してあったが、今はもうない。
電話番号も随分昔のもの。
ケータイが普及してから解約したピンク電話(自家用公衆電話)の番号だ。
本を店で読んでいたことが多かったのですね。箸袋は栞にピッタリだ。

ある号を見ていたら、『コーヒーカップの耳』に対する丁寧な詩集評が載っているのがあった。中原道夫さんが書いて下さっている。
これは処分せずに置いておかなくては。

他にも宮崎翁や伊勢田史郎さん桑島玄二さんなどが執筆しておられるものがある。
結構貴重な文章かもしれない。処分の前にコピーしておこう。

中にこんなのが。1991年3月号。

杉山平一先生の詩「出てゆく」です。このページ、ちょっと印刷が薄いのですが。
杉山先生の作品は他にも載っているが、みな詩集に収められている。
しかしこれはちょっと覚えがないなあ。
わたしが忘れているのだろうか?
この作品、ご自分の会社がうまく行ってないころのことを思い出してのものだろうか?
孤独が見えます。それでも自分を失わずにと、自らを励ますような。
タイトルの「出てゆく」も思いがこもっているような。
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50年前の写真、そのⅡ

2016-02-06 16:30:26 | 懐かしい話
50年前の写真の二枚目。

これは涙が出るほど懐かしい。
こんな写真があったなんて本当に驚き。
これも、前の店先の写真と同じ時に撮られている。
店の前のスバルサンバーが同じ位置に同じ方(西)を向いて止まっている。
その向こうの黒い板塀は「日本盛」の酒蔵だ。
二階建だが大きな建物で、普通の三階建ぐらいの高さがあった。
今はコンクリートの瓶詰め工場になっていて、しかし酒も不況で、しかも瓶は特に売れないからほとんど稼働していない。

真ん中にハカリ(計量機)があります。
これは100キロまで計れました。ボクサーが試合前に乗る台計りと同じ。
が、米は30㎏まででした。
というのも、お米は容器に入れなくてはならないので。
写っている真鍮の容器が30㎏しか入らないのです。


横に竹製の籠があります。なんとなく覚えている程度。

その下の紙袋は30㎏入った米の袋です。
車のない頃はこの30キロ紙袋を運搬自転車に3袋、多い時は4袋積んで走ったこともありました。染殿町にあった西宮中央病院に納入してましたので、一度に300㎏の注文がありました。
自転車が転倒して、紙袋がバッサリと破れて情けない思いをしたことも。

左端にある機械は精選機です。
俗に「石選り機」と呼んでました。
お米の中に混じっている小石を選り出すのです。
この機械が発明されるまでは、手と目で選っていたのです。
だから白い石は見逃し勝ちでした。
通し網の上で、手でシャラシャラと。
大変手間のかかる仕事でした。
あるいは斜面にガラスがあって、そのガラスの上を、お米を少しずつ滑らせながら選り出す、そんな道具もありました。
この精選機は石と米の比重差を利用して遠心力で選りわけるものでした。
これを導入して大変楽になったのでした。

その手前、カーブを描いているものがあります。
これは樽です。大きな樽の一部が写ってます。
高さ50センチばかり。直径は150センチ以上あったと思います。
米が入っているのです。
写真にもかすかに写ってます。
一番よく売れるコメがここに入っていて、すぐにハカリで計れるようになってます。
計りの上に「スクイ」が突き刺さってます。
あれで樽のお米をすくって計るのです。
ああ、こんなこと書いてたら懐かしさがこみ上げてきます。

写真の後ろの方に棚があります。
キッコーマンの醤油の瓶があります。
そう、醤油やソース、酢などの調味料も売ってました。
本日休業の札の左にある段ボール箱は小麦粉が入っている箱ですね。
日本製粉のハート印の小麦粉を売ってました。
そしてその横。レターケースがあります。
鎧戸を下ろしたような。これ、今も使ってます。
その上の棚、左端は「ポリライス」の箱です。
ビタミン強化米です。
その箱の上にあるのは多分タオル。うちの店の名前の入った、お客さんへのサービス品です。
その右にあるのが、「いの一番」の入ったプラスチックのケース。
「いの一番」が入ってます。
「いの一番」とは、タケダが出していた総合調味料。
これ、よく売りました。
「5’(ゴ、ダッシュ、リボヌクレオタイドナトリウム」なんて早口言葉のような言葉も覚えて販売促進しました。
これを売るコンクールを「タケダ食販」(親会社は武田薬品)がやって、温泉旅行に行ったりもしました。
古き良き時代でした。

この写真見ていると、忘れていたこといっぱい思い出します。

しかし米袋の上に無造作に集金カバンが置いてある。
なんかのんびりした感じが時代を表しているようで。
でも忙しかった。

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50年前の写真

2016-02-06 15:45:03 | 懐かしい話
古いものを探していたら、驚く写真が見つかった。
丁度50年前の写真だ。

写っている人は、お米を仕入れていた卸会社「阪神米穀㈱」の山田さんだったと思う。
前に止まっている車は「スバルサンバー」。軽自動車で、わたしが買った初めての新車。
それまでは中古車を二台乗った。
最初は昭和36年に「マツダK360」という軽三輪。これは死ぬ直前の父が今津の自動車屋さん(今もある)に「いい中古が出たら」と注文していたのだった。
11万円で買って、毎月1万円ずつの支払いだった。
それは2年ほど乗って、次に「マツダB360」という軽四輪だった。
これは同業者の前浜米穀店さんのお下がりを、阪神米穀の営業をしておられた内海さんという人が仲介して下さって購入したもの。
いわば素人さんから買った。
この車はダメだった。よく故障した。一年ほど乗って廃車にしたような気がする。
そして買ったのが写真の「スバルサンバー」。
これは鞍掛町の43号線沿いにあった自動車屋(松野といったと思う)から買った。
車高が低くて、重い大きな物を積み下ろしするのに便利だった。
混合燃料だったので、青い排気ガスを吐きながら走った。

自転車が写っている。
もしかして運搬車?と思ったがよく見ると違う。
車の時代になっているので運搬車は処分したのかもしれない。
今「神戸新聞」の朝の連載小説「むーさんの背中」に出てくるような運搬車が懐かしいのだが、残念。
その横に薪が積まれている。
道路に平気に積んであります。
そんな時代だったのですね。
これはご飯を炊いたり風呂に焚いたりする燃料です。
「クヌギの尺六」とか「尺二」とか言ってました。
長さ、一尺六寸とか一尺二寸の意味です。
あるいは、焚きつけに使う細い薪を「スギボソ」と呼んだり。
「スギボソ」とは杉の細いのという意味です。
他に「スギマル」というのもありました。この写真の薪の左端、自転車の横に写っているのが「スギマル」ですね。
軒に「いの一番」の看板があります。
しかし他にややこしいものが写っていません。
ということはこの写真、多分「阪神米穀」さんが写したもの?
というのも、これ、店先を改修したとこみたいです。
パナペットに「今村米穀店」と書かれた文字も新しい。
そして、阪神米穀の社員の山田さん(事務方だったと思う)が写っている。
今、このブログを書きながら思いついたのだが、多分、この改修の費用の一部を「阪神米穀」さんが負担してくれたのでは?と思う。
だから写真が必要だったのだ。
あ、しかし違うなあ。阪神米穀の「ハ」の字もない。
そうだった、阪神米穀に一部負担してもらったのは、もっと後の看板テントに阪神米穀が扱うお米「水晶米」のロゴを入れた時だった。

車の向こうに板塀の倉庫が写ってます。
わたしが子どものころに、父親になにかで叱られて閉じ込められた倉庫です。
その時、すぐには許してもらえそうになかったので、積まれた炭俵の上で寝ころんでいたことを思い出しました。
この倉庫の場所に、後年、先ず小さな喫茶店を開いたのでした。
この昭和41年はまだまだ倉庫が必要な時代。
燃料がいっぱい入っていました。
夏の季節に、冬に売る木炭や煉炭をぎっしりと詰めてました。
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公民館のステンドグラス

2016-02-06 12:10:05 | 将棋
「宮水ジュニア・将棋教室」でした。


講座の前にちょっとお話しをしました。
三階講堂の天井近くの明かり取り窓のステンドグラスについて。


いつもはカーテンが引かれていて気づきにくいのですが、今日、開けてみました。
きれいなものです。
そこで子どもたちに「これはなあ…」と話したのでした。
昔、市役所の南に図書館がありました。
わたしが子どものころに通った図書館です。
重厚な感じの建物でした。
そこで江戸川乱歩の本など借りたのでした。
そして、ノーベル賞、今か今かと言われている村上春樹さんが子ども時代に通った図書館でもあります。
もしかしたらわたしも出会っていたかも…。
昭和3年に酒造家辰馬吉左衞門の寄贈により建てられたということです。
そこには素晴らしいステンドグラスがはめられていました。
昭和60年に解体された時に、市内各所の図書館や公民館に分けられて再利用したのでした。西宮市もなかなかシャレたことをしたのです。
そんな話を子どもたちにしてから、将棋の授業に入って行きました。
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