Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

スウェプト・アウェイ

2014年06月15日 18時31分14秒 | 洋画2002年

 △スウェプト・アウェイ(2002年 アメリカ)

 なんだっていまさら30年も前の『流されて…』のリメイクを?

 てな疑問はどうでもいいんだろね。

 マドンナがやりたいかやりたくないかってだけのことで、

 それも自分の肉体の美しさを自慢したいってのもあったんだろか?

 もっとも、それだけの理由ならなにもリメイクする必要もないんだろうけど、

 リメイクのおかげで小さな歴史が結ばれた。

 前作『流されて…』で男の役をやった、

 ジャンカルロ・ジャンニーニの息子アドリアーノ・ジャンニーニが、

 マドンナの相手役の船乗りをやってるわけで、

 まあ、これくらいしか話題にできそうなものがなかったのかも、

 とかいうのが、正直なところなのかもしれないね。

 なんだか、おしいな~。

コメント

リアリズムの宿

2014年06月14日 13時58分07秒 | 邦画2004年

 ◇リアリズムの宿(2004年 日本)

 なるほど、リアリズムかもしれない。

 なまなましい映像と台詞回しは、なにやら迫真性すら感じる。

 ただまあ、いつの時代なのかちょっとぼんやりした感じがするのは、

 つげ義春の「旅」物が発表されたのが、昭和40年代だからだろう。

 もちろん、冒頭、携帯電話が一般に普及してるわけだから、

 昭和なわけはないんだけどね。

 もっとも、

 まだ大学生臭の抜け切らない脚本家と映画監督の青臭い会話は、

 昭和50~60年代の大学生の自主製作映画的な世界観があって、

 ぼくとしてはえもいわれぬ好感を抱いた。

 ただ、

 性格付けも、ふたりの間をただよう微妙な距離感は、

 要するに間の取り方が見えてこない居心地の悪さというやつで、

 なるほど、リアルだな~とは感じたものの、

 山間の宿で金を巻き上げられるくだりや、

 あまりにも薄汚くかつ切な過ぎる生活臭たっぷりの民宿のくだりになってくると、

 どうにも生理的なリアルさはあるものの、設定にリアルを感じなくなり、

 つげ義春という作家の思考が色濃く感じられてくる。

 それはそれでいいんだけども、

 つげ義春の持っているリアルでありながら決してリアルでない世界は、

 こうして実際の人間の演じるドキュメンタリー調の映像作品になってみると、

 妙にすんなり受け入れられちゃうような気もするからふしぎだ。

 それが、山下敦弘の演出力や、向井康介の脚本力かもしれないし、

 長塚圭史と山本浩司の妙にリアルな演技によるものなのかもしれない。

 すげーなこれはと感じたのは、

 尾野真千子の登場するカットで、

 おもいきり引いた逆光気味の砂丘の波打ち際で、

 パンティ一枚の彼女が手前からフレームインしてくるんだけど、

 半裸という衝撃的な出会いが打ち消されてしまうくらい、

 砂と波と光の凄まじさが伝わってきてた。

 尾野真千子が謎の女であればあるほど、

 彼女を中心にしてふたりの自主製作映画人の過去や現実が見えてきて、

 それはたとえば、

 童貞であったり同棲してたのが別れたとかいう事実だったりするんだけど、

 問題の謎の女については謎のまま突然現れ、やがて突然蒸発する。

 次の登場が、

 これまた現地の女子高生という突飛な結末に飛ばされるわけだけど、

 こういう衝撃的な出会いと別れと再会とがリアリズムであるといえば、いえる。

 いや、事実は奇なりであるとおもえば、そういえるかもしれない。

 もちろん、タイトルにあるのは「宿」であって「旅」ではないので、

 もうなんだか眼をそむけて鼻をつまみ、爪先だけで物に触りたくなるような、

 生理的嫌悪感がたまらずに迫ってくる森田屋だけがリアルであればいいわけで、

 映画全体に現実臭があるのかないのかということについては、

 ぼくらはそれぞれが味わえばいいだけの話なんだけどね。

コメント

ナイル殺人事件

2014年06月13日 02時12分16秒 | 洋画1971~1980年

 ◇ナイル殺人事件(Death on the Nile 1978年 イギリス)

 ポアロの第1作『ナイルに死す』の映画化らしい。

 らしいっていうのは、原作を読んだことがないからだ。

 中学の頃、推理小説好きになりたかった。

 江戸川乱歩や横溝正史をほぼ読破して、

 ちょっとばかり好い気になってて、

 これだったら創元推理文庫も早川ポケットミステリも朝飯前だ、

 くらいにおもってたもんだから、

 まあ、いちおう、何冊か挑戦した。

 その中にはアガサ・クリスティもあったりしたんだけど、

『アクロイド殺人事件』で、早くもひよった。

 ぼくみたいなノータリンに小説読みは向いてなかった。

 まざまざと知らされる現実だった。

 だから、漫画ばかり読むようになっちゃったんだが、

 それはまあいい。

 この映画の凄さは、なんといっても出演者の豪華さだ。

 ひとりずつ書いていったらえらいこっちゃになるから、やめとく。

 オリビア・ハッセーの出てたことがぼくにとっては一番なんだけど、

 それについても、やめとく。

 ポアロ役のピーター・ユスティノフだ。

 ぼくの個人的な趣味としては、

『オリエント急行殺人事件』のアルバート・フィニーの方が、

 なんとも高慢で厭味ったらしい感じがして、興味がわいた。

 物語としては、

 オリエント急行にしてもナイルの川下り船にしてもそうなんだけど、

 列車や船そのものの面白さにあるんじゃなくて、

 動いている閉ざされた空間のために使用されているものだから、

 いまひとつおもしろみが足りない。

 列車そのもの、船そのものにはらはらどきどきしたいじゃない?

 映画の方向性が違うだろとかいわれそうかしら?

 ちなみに、この映画が公開されたとき、

 ぼくは浪人生だった、ような気がする。

 やけにアップテンポの『ミステリーナイル』がエンディングに流れた。

 なんじゃこりゃ?!っていう感じで、中身にまるでそぐわない。

 後で知ったんだけど、日本で公開するときに差し替えられたらしい。

 この頃から日本の配給会社は主題歌をへんちくりんなものにするんかいな。

 それと、もうひとつ。

 この映画で忘れられないのが、

『結末は決して話さないで下さい』

 っていうキャッチフレーズだ。

 実はこれは、

 映画のエンドクレジットで日本の配給会社が挿入したものが、

 そのまま宣伝にも使われたわけなんだけど、

 まあ、ゆるす。

 関係ないかもしれないんだけど、ぼくはこの頃、ゆるせない単語があるんだ。

 ネタバレってやつだ。

 映画なんだから、ネタとかいうんじゃないよ!

 とおもったりする。

 漫才のオチや芸人のネタとかじゃないんだぞ、まったく。

 これはあきらかにテレビとか雑誌とかの悪影響で、

 どこのどなたがいいだしたものかは知らないけれど、

 ネタバレっていうのはそもそも楽屋裏の用語で、あんまり綺麗な言葉じゃない。

 一般人が使うと言葉そのものが下品になるし、使っている人間もまた下品になる。

 もしかしたら日本人は芸人がわざとポーズをつけてる下品さがわからず、

 まじに下品そのものに憧れ、それをかっこいいとかおもったりして、

 みずから下品な国民になっていこうとしてるんだろうか?

 言葉が下品になれば、態度も下品になり、生き方そのものが下品になる。

 そうなるとやがては日本そのものが下品な国家に成り下がったりしないかしら?

 とおもったりもする。

 もしも百歩ゆずって映画にネタなんてものがあるとするんなら、

 それはテーマあるいはモチーフのことで、そんなものは最初からわかってる。

 ネタバレしないで宣伝する映画が世界のどこにあるんだ?

 そこへいくと『ナイル殺人事件』は上品だ。

 結末、というきちんとした言葉を使ってる。

 けど、

 そもそも、結末がわかったからって映画を観なくなるってのもおかしい。

 まあたしかに推理劇だから、犯人がわかっちゃったら観る気は失せるかもしれない。

 でも、そういうもんじゃないだろっておもうんだよね。

 ラストシーンがわかってたって、おもしろい映画だったら何度でも観るでしょ?

 それともこの頃の観客はストーリーだけ追ってるんだろか?

 小説だって映画だって、作品を堪能するってのはそういうことじゃない。

 小説なら作家と、映画なら監督と、対話するのが醍醐味ってやつだ。

 結末なんて問題じゃない。

 小説ならその文章にひたり、映画ならその映像や音楽にひたる。

 そういうものなんじゃないかな~?

 なんて話は、あんまり『ナイル殺人事件』とは関係ないんだけどね。

コメント

ザ・イースト

2014年06月12日 15時38分47秒 | 洋画2013年

 ◎ザ・イースト(THE EAST 2013年 アメリカ

 製作総指揮がトニー・スコットで、

 製作にリドリー・スコットが一枚噛んでるとあっちゃ、見ざるをえない。

 で、観た。

 おもしろかった。

 環境擁護団体ってのはどこまでが正義がよくわからないところがあるんじゃない?

 ってのが単純な主題なんだけど、

 たしかに世の中、

 捕鯨反対や絶滅危惧種の捕獲反対や公害反対や核廃絶やら、

 とにかく環境と人類の未来を旗印にして戦い続ける人達は少なくない。

 そうした運動が過激なものにならないかぎり、なるほど、それはそれでいい。

 でも、ときに過激をとおりすぎて重大な犯罪行為になっちゃう場合もある。

 もはやそれは環境擁護団体ではなく正義の仮面をかぶった犯罪者の集団だ。

 で、この環境テロリスト集団「イースト」に対して、

 元FBIの美人捜査官ブリット・マーリングが潜入捜査を仕掛けるんだけど、

 ここからが凄い。

 集団の中にいる紅一点がエレン・ペイジなのはさておき、

 こいつらの言動や行動があまりに過激で、

 最初は眉をひそめてるんだけど、

 これがどうして環境被害に遭った人達を見ている内に、

 徐々にではあるけど「イースト」の主張に共鳴していっちゃうってことだ。

 カルト集団に潜入している内に自分でも気付かない内に洗脳されちゃう、

 みたいなことがあるかどうかは知らないけど、

 この場合は、被害に遭っている現実が眼の前にクローズアップされる分、

 自分の体内にある正義感だけがむくむくと頭をもたげてくることに、

 理性では不安と恐怖を抱きながらも、本能がめざめてくるところが凄い。

 ちょっと驚いたのは、

 ブリット・マーリングがリドリーと並んで製作に参加し、

 監督のザル・バトマングリと一緒に脚本も書いてることだ。

 たんに綺麗ってだけじゃないんだ~。

 いや、感心しました。

コメント

新選組始末記

2014年06月11日 13時05分56秒 | 邦画1961~1970年

 ◇新選組始末記(1963年 日本)

 

 市川雷蔵の新撰組物となれば、これはもう沖田総司かとおもえば、あにはからんや、山崎蒸だった。

 この頃では「蒸」という漢字は「丞」が正しかったというのが定説で、漢字の読みからしてもそりゃそうだろとおもってたんだけど、この映画が撮られたときはまだ「蒸」だった。

 それはともかく、どうも雷蔵と印象が合わなくて苦労した。

 そのあたり、三隅研次はどうおもってたんだろう?

 若山富三郎の近藤勇はなんだかお人好しな感じがして、もうすこし激越な感じがあってもいいんだろうけど、いつもこういう雰囲気の近藤像だ。

 それは土方歳三についてもそうで、怜悧かつ非情なムードを漂わせてなくちゃいけない。

 で、大映とくれば、これはもう非情のライセンス男、天知茂しかいないんだけど、ぼくはどうしても栗塚旭命な人間なんで、誰がどれだけ上手に演じようと認められない。

 でもって、松本錦四郎が沖田総司なんだが、これが雷蔵とかぶっちゃうんだよね~。

 まあ、池田屋事件だし、子母沢寛の原作もあるしで、これはもうどうしようもなかったんだろうし、これはこれでうまくまとまった筋立てになってたりするんで、ま、仕方ないかなと。

 ただ、この頃、ぼくは池田屋事件に興味があって、ちょうど150年前の祇園祭の夜だったりして、今年は大船鉾も150年ぶりに復活したりするものだから、ここらで池田屋事件の真実を見つめなくちゃいけないとも、こころひそかにおもってたりするのだ。

 真実はなにかって?

 ここでは書けないな~笑

コメント

アイデンティティー

2014年06月10日 02時26分04秒 | 洋画2003年

 ◇アイデンティティー(Identity 2003年 アメリカ)

 要するに「そして誰もいなくなった・モーテル版」なわけだけど、

 21世紀の話な分、派手でスピーディだ。

 なんてジョン・キューザックの口はいつまで経っても半びらきなんだろ?

 とかおもいながらのんびり観てたら、

 意外にそうでもなかった。

 土砂降りが原因の洪水でモーテルが孤島化するのは、

 まあ、舞台ができてくるってことでいかにもな演出ながらいいんだけど、

 ちょっとばかり追い込まれ型に嵌まりすぎてたきらいがないでもない。

 ただ、

 多重人格を持った人間の脳内妄想が続いて、

 その妄想の中でひとりの登場人物が死ねば、

 脳内の人格がひとつ減っていくっていうのは、

 いやまあ、夢を観ていて、夢の中の登場人物が人格をもって、

 この夢を覚めさせるためにはすべての人間を殺すしかないっていう、

 とてつもない消去法によって誰の夢かを判断するのと同じなわけよね?

 まあ、途中途中で伏線は張られてて、

 いったい誰の脳内妄想なのかってことの方に興味がシフトする。

 そういう意味ではなかなかよく練られた脚本といえるし、

 ポスターの絵柄がこうした世界を上手に表現してる。

 いいんじゃないかな~。

コメント

踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望

2014年06月09日 02時11分31秒 | 邦画2012年

 ◇踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望(2012年 日本)

 そうかあ、終わっちゃうのか~。

 なんだかんだいっても、

 テレビシリーズから映画になって成功したのは、

 この『踊る大捜査線』と『海猿』のシリーズなんだから、

 テレビという宣伝効果抜群の代物には舌を巻くしかない。

 よく『北の国から』が映画化されなかったもんだっておもうけど、

 まあ、それはそれとして、

 ぼくももう年をとってしまったのか、この『踊る』シリーズは、

 観終わると同時に、ほぼ、内容を忘れる。

 おそろしいもんで、断片的なことは覚えてるんだけど、

 結局、どれがどれだかわからなくなるんだ。

 ことに、

 この『FINAL』はみんなのある種のけりをつけないといけないから、

 余計に余分な脱線が多くなってしまい、

 こちらを立てればこちらが立たずみたいな感じになってたような…。

 結局、最終回というのは、

 主要な人物たちが辞める辞めないで右往左往することになり、

 それが上からの圧力によるものなのか、

 それとも自分の身体の不調によるものなのかっていう違いはあっても、

 往々にして、そういうもんだ。

 さらには、ずっとひっぱってきた恋愛未満の関係をどうするのかっていう、

 きわめてミーハーな興味も最後までひっぱらないといけない。

 つまりは、核心であるはずの事件が希薄になりかねない。

 もっとも、

 このシリーズは常にいっぱい事件が起こって、

 それが知恵の輪みたいにこんがらかってくるところが味噌なんだけどね。

 とはいえ、

 ぼくは、実をいうと、

 テレビシリーズは映画の第3作目が公開されてからようやく観た。

 それくらいなものだから熱狂的なファンってわけではもちろんない。

 にもかかわらず、これであらかた制覇したわけだから、

 いやまじ、テレビの宣伝効果はたいしたもんだ。

 これからは、ネットの宣伝効果が膨れ上がっていくんだろか?

コメント

戦争と平和

2014年06月08日 19時48分13秒 | 洋画1961~1970年

 ◇戦争と平和(1967年 ソ連)

 とにかく、長かった。

 453分!

 どうにかしてよっていうくらい、長い。

 セルゲーイ・ボンダルチュークって人は、

 いったい、どこまでわがままが許されたんだろう?

 よくはわからないんだけど、

 この作品はもはやトルストイ作の歴史劇であるというよりも、

 セルゲーイの人間像みたいなものがそっくり語られてるような印象だ。

 いいかえれば、ふたりの共同作業のような作品だろう。

 この映画を初めて観たのはたぶんテレビで、

 おそらくは徹底的にカットされたものだったんだろうけど、

 それでも、中学生だったぼくは、

 リュドミラ・サベーリエワのこの世のものとはおもえない美しさに、

 いやもう圧倒された。

 その後『ひまわり』でまた彼女の美しさを観ることができたけど、

 結局のところ、この映画は、

 リュドミラ・サベーリエワに始まり、リュドミラ・サベーリエワに終わる。

 第一部と第二部はたしかに大河物として十分な世界なんだけど、

 第三部と第四部はだんだんと観念的になり、

 ロシア帝国に対する懐疑と批判が色濃くなってくるようで、

 どうも物質世界から精神世界へ移行していってる観がないでもない。

 まあ、時代が産み出したんだろうけど、

 それでも史上最大の映画であることはまちがいないわけで、

 よくもまあ撮ったもんだよね。

コメント

ココ・アヴァン・シャネル

2014年06月07日 13時51分15秒 | 洋画2009年

 ◎ココ・アヴァン・シャネル(Coco avant Chanel 2009年 フランス)

 ぼくは、おしゃれとは程遠い人間だ。

 着るものにこだわってたらきりがないし、

 そもそもそんな贅沢なんてできるような身分じゃない。

 だから、この映画ではないけど、

 ほかのココ・シャネルの映画で、

 シャネルのロゴが「COCO」から来てるのを見たとき、

「へえ~!」

 っておもうくらい、ファッションについては無知だ。

 で、そんなぼくがこの映画を観たところで、

 そのファッションセンスについてあれこれいうことなんてできない。

 けど、

 オドレイ・トトゥが、実にうまいのはなんとなくわかった。

 監督のアンヌ・フォンテーヌの起用にちゃんと答えてるっていう印象だ。

 これまでにココ・シャネルの映画は何作かあって、

 どういうわけか、ぼくはそれに巡り合ってるんだけど、

 強烈なメロドラマだったり、ちょっとエロチックだったりして、

 姉妹で踊り子になって「ココの歌」を歌ってるときのコケティッシュな感じは、

 あんまり感じられなかったし、

 貧相なココがどんな感じでのしあがってきたのかってことも同様だ。

 ただ、オドレイはその貧相さが上手に漂ってるし、

 きつさもわがままさもプライドも包含されてる。

 なんつっても、お針子の時代が似合うし、

 そこからファッション革命をひきおこしていく自意識の強さも、

 上手に表現されてる。

 ただ、まったく知らなかったことなんだけど、

 このポスター、妙に違和感がある。

 右手に万年筆を持ってることだ。

 どう見たところで、これ、煙草を持ってるポーズじゃない?

 だって、

 シャネルって筋金入りの愛煙家だったんでしょ?

 で、わかった。

 フランスでは煙草の広告が全面的に禁止されてて、

 最初はやっぱり煙草を持ったポーズだったらしい。

 それが変更されてこうなったらしいんだけど、

 もしも、全面回収される前のポスターがあれば、

 プレミア物なんじゃないかっておもうわ~。

コメント

最後の忠臣蔵

2014年06月06日 13時21分58秒 | 邦画2010年

 ◇最後の忠臣蔵(2010年 日本)

 ちょっと「へえ~」とおもったのは、

 田中陽造の脚本だってことだ。

 あんまりねっとり感が感じられなかったのは、

 一般大衆向けと判断したんだろか?

 それとも杉田成道の希望だったんだろか?

 ま、そんな個人的な疑問はいいんだけど、

 ともかく徹頭徹尾、桜庭ななみがええね~。

 寺坂吉右衛門については、

 誰もが題材に取りたい人物で、

 これまでにも少なからず、

 寺坂に関する小説の類はあったんじゃないかと。

 だからそのあたりはあんまり真新しくは感じらなかったんだけど、

 大石に隠し子がいてうんぬんっていうのは、

 もしかしたらこれまでになかった設定かもね。

 全体にしっとりと落ち着いた絵柄と構成で、

 そういう意味でいえばどっしりした印象はあるんだけど、

 もはや赤穂藩の世界というより、

 大石をへそとした世界になってるわけで、

 そのあたり、どうも忠臣蔵からはそれてる気がしないでもないかと。

 大石が主君みたいな気になってくるんだよな~。

コメント

明日に向って撃て!

2014年06月05日 14時19分19秒 | 洋画1961~1970年

 ◎明日に向って撃て!(Butch Cassidy and the Sundance Kid 1969年 アメリカ)

 いまさらながら、タイトルの語尾に「!」がついているのを初めて知った。

 さらに『明日に向かって撃て』だとおもってたのに、送り仮名まで違ってた。

 っていうか、意識したことがなかった。

 そういう時代だったんだね。

 ぼくは残念ながらこの映画を封切では観てなくて、

 大学に入ってから早稲田松竹で初めて観た。

 その頃、ロバート・レッドフォードは人気絶頂で、

 名画座はどこもかしこもレッドフォードだったような気がする。

 若造だったぼくも、ごたぶんにもれず、

 やっぱりポール・ニューマンの渋さよりも、

 レッドフォードがご贔屓だった。

 キャサリン・ロスは徹底的に可愛かったし、

 レイモンド・バカラックの『雨にぬれても』はよく口ずさんだ。

 ま、そんな思い出話はともかく、

 へえ~とおもったのは、ストップモーションの引きだ。

 記憶だとストップモーションの絵はそのまま固定されてた。

 ところが、そうじゃなくて、

 絵が止まってから、ぐんとズームダウンされる。

「え?」

 とおもった。

 当時、こんなショットができたんだ~と。

 いや~ときどき観返すのはいいもんだね。

 おもいもよらない発見がいくつかあるんだな、これが。

コメント

間宮兄弟

2014年06月04日 12時20分52秒 | 邦画2006年

 ◇間宮兄弟(2006年 日本)

 ぼくは、曖昧カタカナ語は使わない。

 だから、ハートフルとかいう言葉も使わない。

 だって、意味がわかんないんだもん。

 で、この映画はハートフルな映画らしい。

 どういう意味かはわからないけど、

 気持ち悪いいつまでも子離れできない母親に、

 これまた気持ち悪い兄弟ばなれできない子供みたいなオタクまがいの兄弟がいて、

 結局、人生の辛さがわかったようなわからないような呑気さでいるから、

 いつまでたっても結婚できないし、こんなんじゃあかんぜとおもいながらも、

 やっぱり温室の中がいいんだよねっていう平和ぶった話ってこと?

 とかいったら、あかん。

 もう一歩ふみこんで、もうちょっとだけ深いところがあるかもしれないと考えよう。

 原作を読んだことがないから間違ってるかもしれないんだけど、

 たぶん、この兄弟は、かなり苦労人の母親に育てられたんだろう。

 母親は夫を早くに亡くしたか出ていかれちゃったかして、

 ともかく辛酸を舐めて育てたから、

 子供には苦労させたくないし、自分が惨めだとおもわれたくもない。

 だから常に奇妙な明るさをふるまい、作り笑顔で接し、

 中古のロールスロイスまで買っちゃったりする。

 そんな母親に育てられた兄弟は、

 自分たちの生まれついた惨めさをよく噛み締めていて、

 家族の絆ほど強いものはないと固く信じていて、

 自分たちの城をかたくなに死守しようとしている。

 かれらにとって集めた本やフィギュアとかのグッズは、

 宝物であると共に、自分の人生そのものなんだよね。

 だから、丁寧に扱うし、乱雑な部屋にはしない。

 すべてにおいて几帳面というのは、やや神経が過敏すぎるわけで、

 交感神経が不調なのか、自律神経が失調しているのかどうかは知らないけど、

 ともかく、常人とはちがった人間であるということだ。

 兄弟は自分のわがままはいえずに育ったから、

 他人を傷つけることはもちろん兄弟で傷つけ合うこともない。

 それは自分を傷つけることになるから、そういう意味でいえば、

 かれらは強いようで非常に弱く、もろい。

 だから、かれらはガラス細工のような心と体と環境を維持するために、

 毎日をとても清潔に、几帳面に過ごしている。

 他人に対して常に優しく、人間としての礼儀を保ち、つつましく生きている。

 それが仮面なのか本来の姿なのか気づかないけれど、

 自分が他の人間と違ってしまっていることにも気づかずにいる。

 こんな兄弟に恋人ができるとはちょっとおもえないんだけど、

 でも、そこにこの作品の主題があるんじゃないか?

 だって、この兄弟はなんにも悪いことはしていないし、

 健康で、素直で、温和で、従順で、勤勉で、惻隠の情にあふれている。

 つまり、日本人としては申し分ないわけだ。

 けれども、実際はもてない。

 どころか、ちょっとばかり気色悪がられてたりする。

「そんなのまちがってるだろ」

 といったとしたら、いったい、まちがってるのは誰なんだろ?

 日本国なのか、日本人なのか、それとも人間の社会なのか?

 そういうことをやんわりといっているような気がするんだよね。

コメント

ママの遺したラヴソング

2014年06月03日 00時10分54秒 | 洋画2004年

 ◎ママの遺したラヴソング(A Love Song for Bobby Long 2004年 アメリカ)

 スカーレット・ヨハンソンはよほどハリウッドで可愛がられているようだ。

 そんな気にさせる話だったし、

 彼女を子役の頃から見てると、

 着実に良い作品に巡り合ってるような気がしてくる。

 ここでも、ジョン・トラボルタに胸を借りた感じだけど、

 なんでこんなに愛されるんだろうって、ちょっとふしぎな気にもなる。

 トラボルタが有能ながらも小説家として大成できず、

 それが嵩じて大学教授の職も追われ、うだつのあがらない暮らしをしながら、

 自分よりも未知の才能を秘めた青年を同居させ、

 かたくなに小説を書かせようとしているうらぶれたインテリ中年を演じるっていうのは、

 ちょっとばかり意外ではあったけれども、

 まあ、なんとかこなしてるあたりはさすがだ。

 好かったのは、トラボルタのかぶってる帽子で、

 麦わら帽子なんだけどちょっぴりウエスタンだったりするところがまたいい。

 ただ、自分に自信のない者の常として、

 なにかを引き合いに出すか、あるいは古典や定款に頼りたがるものだ。

 ここでのトラボルタも例外ではなく、故人の言葉をしきりに口にする。

 自分自身のことばを出すことに勇気がなくなってしまった証だ。

 でも、冒頭に掲げられる、

『人は冒険をやめてはならぬ

 長い冒険の果てに

 出発点へ辿り着くのだから

 そして 初めて居場所を知るのだ』

 っていう、T・S・エリオットの『四つの四重奏』なる詩は、

 この映画のすべてを語っているわけだから、

 あながち、かつての名言は、

 単なる言葉遊びってわけでもないんだね。

コメント

ジョナ・ヘックス

2014年06月02日 00時00分48秒 | 洋画2010年

 △ジョナ・ヘックス(Jonah Hex 2010年 アメリカ)

 昔から、

 顔に深い傷のある主人公っていうのは一種のジャンルなんだけど、

 旗本退屈男にしても柳生十兵衛にしても丹下左膳にしても、

 たいがい、心根が好くて、見てくれも悪くない。

 ところが、この作品はそうじゃないんだよなあ。

 ジョシュ・ブローリンは、

 たしかに実物はアクが強いけども、

 こうまで醜くする必要があったんだろか?とおもっちゃう。

 あんまり正視できないのは、主人公としてどうよ。

 そりゃあ、死者と話ができたり、蘇らせたりできるっていう、

 尋常でない能力を身につけちゃうくらいだから、

 よほどの傷を負わないと駄目かもしれないけど、

 もうすこしなんとかできたんじゃないのかと。

 それと、

 ミーガン・フォックスの印象がやけに薄いとおもったら、

 全体を通じてそんなに出てないんだね。

 娼婦っていうのは彼女にはもってこいの役どころなんだから、

 もうすこし脚本を考えればよかったんじゃないかな。

 原作のはちゃめちゃぶりと今回の作品とが比較されてるけど、

 これについてはぼくは原作をまったく知らないから、

 なんともいえない。

 まあ、西部劇という世界を逸脱しないようにしながら、

 かなり破天荒なものにしたいという制作者側の意図は買うけど、

 グロさのただよう派手な怪奇西部劇って感じになってるだけなのが、辛い。

コメント

RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語

2014年06月01日 18時46分42秒 | 邦画2010年

 ◇RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語(2010年 日本)

 鉄道好きな人はたくさんいても、

 鉄道嫌いな人はそんなに多くはないだろう。

 とかっておもっちゃうのは、ぼくが鉄道好きだからだろうか?

 といっても、

 ぼくは単に好きってだけで、

 この映画に出てくる車輛がデハニ52・53とかってことは知らなかった。

 そりゃあ、

 機関車や電車のフィギュアを見るのは好きだし、

 そういうものが展示してあるBARとかにも何度か行ったし、

 これから先も、鉄道関連のところには出かけてみたい気もする。

 でも、それくらいなものだ。

 だからとはいえ、

 会社を辞めて鉄道の運転手に生きがいを見出す、

 っていう気持ちがわからないわけじゃない。

 もちろん、郷土愛めいた感情もわかる。

 わかるけど、

 故郷に戻って再就職するかって聞かれると、

 そりゃ勘弁してちょうだいなと答えちゃう。

 都会に出てきた連中の内、

 少なくない人達がそんなふうに答えるんじゃないだろか。

 作品中、美術セットは一所懸命に作られてるし、ことに車輛はたいしたものだ。

 往年のデハニ52・53を改修したそうだけど、いやまじ、よくやってる。

 そういうことからすると、

 絵づくりは丁寧な気がしたよ。

コメント