◇ナイル殺人事件(Death on the Nile 1978年 イギリス)
ポアロの第1作『ナイルに死す』の映画化らしい。
らしいっていうのは、原作を読んだことがないからだ。
中学の頃、推理小説好きになりたかった。
江戸川乱歩や横溝正史をほぼ読破して、
ちょっとばかり好い気になってて、
これだったら創元推理文庫も早川ポケットミステリも朝飯前だ、
くらいにおもってたもんだから、
まあ、いちおう、何冊か挑戦した。
その中にはアガサ・クリスティもあったりしたんだけど、
『アクロイド殺人事件』で、早くもひよった。
ぼくみたいなノータリンに小説読みは向いてなかった。
まざまざと知らされる現実だった。
だから、漫画ばかり読むようになっちゃったんだが、
それはまあいい。
この映画の凄さは、なんといっても出演者の豪華さだ。
ひとりずつ書いていったらえらいこっちゃになるから、やめとく。
オリビア・ハッセーの出てたことがぼくにとっては一番なんだけど、
それについても、やめとく。
ポアロ役のピーター・ユスティノフだ。
ぼくの個人的な趣味としては、
『オリエント急行殺人事件』のアルバート・フィニーの方が、
なんとも高慢で厭味ったらしい感じがして、興味がわいた。
物語としては、
オリエント急行にしてもナイルの川下り船にしてもそうなんだけど、
列車や船そのものの面白さにあるんじゃなくて、
動いている閉ざされた空間のために使用されているものだから、
いまひとつおもしろみが足りない。
列車そのもの、船そのものにはらはらどきどきしたいじゃない?
映画の方向性が違うだろとかいわれそうかしら?
ちなみに、この映画が公開されたとき、
ぼくは浪人生だった、ような気がする。
やけにアップテンポの『ミステリーナイル』がエンディングに流れた。
なんじゃこりゃ?!っていう感じで、中身にまるでそぐわない。
後で知ったんだけど、日本で公開するときに差し替えられたらしい。
この頃から日本の配給会社は主題歌をへんちくりんなものにするんかいな。
それと、もうひとつ。
この映画で忘れられないのが、
『結末は決して話さないで下さい』
っていうキャッチフレーズだ。
実はこれは、
映画のエンドクレジットで日本の配給会社が挿入したものが、
そのまま宣伝にも使われたわけなんだけど、
まあ、ゆるす。
関係ないかもしれないんだけど、ぼくはこの頃、ゆるせない単語があるんだ。
ネタバレってやつだ。
映画なんだから、ネタとかいうんじゃないよ!
とおもったりする。
漫才のオチや芸人のネタとかじゃないんだぞ、まったく。
これはあきらかにテレビとか雑誌とかの悪影響で、
どこのどなたがいいだしたものかは知らないけれど、
ネタバレっていうのはそもそも楽屋裏の用語で、あんまり綺麗な言葉じゃない。
一般人が使うと言葉そのものが下品になるし、使っている人間もまた下品になる。
もしかしたら日本人は芸人がわざとポーズをつけてる下品さがわからず、
まじに下品そのものに憧れ、それをかっこいいとかおもったりして、
みずから下品な国民になっていこうとしてるんだろうか?
言葉が下品になれば、態度も下品になり、生き方そのものが下品になる。
そうなるとやがては日本そのものが下品な国家に成り下がったりしないかしら?
とおもったりもする。
もしも百歩ゆずって映画にネタなんてものがあるとするんなら、
それはテーマあるいはモチーフのことで、そんなものは最初からわかってる。
ネタバレしないで宣伝する映画が世界のどこにあるんだ?
そこへいくと『ナイル殺人事件』は上品だ。
結末、というきちんとした言葉を使ってる。
けど、
そもそも、結末がわかったからって映画を観なくなるってのもおかしい。
まあたしかに推理劇だから、犯人がわかっちゃったら観る気は失せるかもしれない。
でも、そういうもんじゃないだろっておもうんだよね。
ラストシーンがわかってたって、おもしろい映画だったら何度でも観るでしょ?
それともこの頃の観客はストーリーだけ追ってるんだろか?
小説だって映画だって、作品を堪能するってのはそういうことじゃない。
小説なら作家と、映画なら監督と、対話するのが醍醐味ってやつだ。
結末なんて問題じゃない。
小説ならその文章にひたり、映画ならその映像や音楽にひたる。
そういうものなんじゃないかな~?
なんて話は、あんまり『ナイル殺人事件』とは関係ないんだけどね。