地続き

新しく学習したり記憶する力は確かに落ちている。ただ心の感度は死ぬまで新陳代謝をするのではないかと思う。だからさび付くのは嫌だから磨きたいとは思っている。面白いことに磨く作業が、これまで身につけた経験や知識を剥ぎ落とし、ちょうど子供のころの感性を取り戻すことを目指してるような感じもする。
あのころの感受性で社会や人間を俯瞰して見られたら、今よりもっと面白く見えてくるはずだ。
 ただ子供の頃は、自分の先に大きな山があり、自分が死ぬことには怖さを感じたものだが、今はこの世の自分とやがて来るあの世とが地続きになっているように見える。
 これは余分な肩の力が抜け悪くはない。
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都心へ行ったきた印象

~記念日で二人で日比谷の派遣村を始め、築地ですしを食べ新宿で映画を見てきた。
不景気とか何とか言っても、街中に無駄や贅沢が溢れてる。その大量消費大量廃棄、の絵の中に人の廃棄も加わってきたように見えた。
政府・行政の無駄使いとよく言われるが、無駄遣いは国だけではなく企業も我々も。
1度贅沢をしてしまうと戻すのは何倍も難しいいと言うが、都心で見た風景は人を犠牲にしても贅沢や無駄がやめられないものだった。有限な地球資源とよく言う自分もその中にスッポリ入っている。
 自分の立っているところを見直すきっかけにはなったと思う。
 記念日で出かけるのもいいものだ。
 
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いいぞ!渡辺久信監督

さくねん日本リーグを制した西部ライオンズの若き監督。見るからにおおらかかつ繊細で好感持てる。
 新年に当たり取材する記者の「監督の尤も大事な一言を色紙に」と求めると殆ど迷わず《信頼》と書いた。指導はそれぞれのコーチの仕事で、監督はもう少し違うと言う。彼自身コーチ時代は厳しかったと言う。今は、選手が失敗しても失敗した事を一番ん本人が知っているから絶対怒らないと言う。
 監督自身の経験から得た確信した自身のようだった。
 色紙に書いた《信頼》を見ていて何か頭によぎった。そう学生時代学んだ指導以前の教師と子供の絶対必要な教育関係・ラポート(しいては人間関係の前提でもあるが他の頃は殆ど頭に残っていない)として学んだ。
 それには、「絶対的な受容」が条件であるとも合わせて学んだ。
 それまで理解していた信頼関係が≪ラポート≫の言葉でぐーと因果関係を持った深みのあるものとして描かれた。それまでの人間観を変えるような感動を覚えた。
自分の地が地だから意識しても、未だに身に付かないですぐぼろが出る。
 でも、そうありたいと意識し続けたことは確かだ。
 教室の教師は監督兼コーチのようなものだ。監督の仕事はそれなりに時間と場が無ければできない。
 教師生活前半はまだしも、後半はコーチばかりを求められた。しかも子供を見ていない上意の指示によるものが増える一方だった。
 今、現場には教育関係を見出す事は可也難し。、その中で例外的に教師の上意に逆らったとも言うべき頑張りで、かろうじて僅かにあるだけだと考えている。
ついでに、 子供が育つ上で他者への信頼は基本的な必要条件だが、今日子供はどこでこの信頼関係を培っているだろう?
学校の教師と子供の関係は先にも書いたが、子供を蹂躙している事柄は数知れない。その中で、学校には生活時呈があって子供はそれに合わせて動く。教師は「チャイム着席」とか言って時間を守りなさいと指導する。
 ところで、日本で学校が求める時呈を守れている学校が一つでもあるだろうか?
 私は経験的にも物理的にもそういう学校があるとは考えられない。
 もし、これをよんでいる人で、興味があったら最寄の学校を監察して見るといい。誰の目にも見える日本の教育行政のいい加減さだが、ここ20年以上どこからも問題になった事がない。教育熱心な国の不思議なはなし。
信頼関係を危うくしているのは学校だけではない。家庭も同様。
 親子の信頼関係も十分な時間と場が無ければ育つものではない。今、多くの家庭が夕食を共に出来ない状態にある。これは、教師をしながら私も失敗し、子供にエライ目にあわせた。
渡辺久信の≪信頼≫から話は飛んだが、そんな事を改めて思い出させてくれた。
 ≪信頼≫≪ラポート≫はどんな世界のどんな人間関係でも最も基本的で前提になるかもしれない。(学力も家庭も野球も本当には)そこからしか始まらないのかもしれない。
渡辺久信に感謝。


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