そんなに違いはない

地上でヒトビトは議論し時に対立し争うが、求めるものに完全はない。
 現役時代、子供達の日記を文集(5重丸号)にまとめた事がある。
 子供達の日記を読んだあと、赤ペン〈感想)と同時に、まるをつけ私なりの評価を表した。月日だけでも書いてあれば3重丸をつけ、最高の評価も4重丸半で、4重丸の右上に小さな丸をつけた。5重丸を目指しながらただの一人も敢えて評価しなかった。
 通知表も、全評価項目を【出来る】にしたり【出来ない】にはしなかった。
 それは文章同様学力も、完全に○や×はあり得ないし、もしそう評価したらそれ自身子供を不幸にすると考えていたからだ。
 地上の我々も同じだろう。
あっちこっちで○×式に対立するが、基本的な関係ではないだろう。
 主義主張や立場は事柄の違いを示す目印になっても本質的な違いかどうかは
別である。
 例えば各国は独自の憲法や文化をもち、違いがあるように見えるが、幸福を求める本質に違いがあるはずはない。


 「3食とり、災害から身を守り、元気に生きる。」(演出家 
井上ひさしから借用)は立場を超えて共通した願いで、憲法以前の自然法のようなもの。
   
 聞くに見るに堪えないイスラエルとパレスチナの争いは、
 国際世論も何も手上げのようだが、3食取れない人、身の危険にされされている人、怪我や病気で元気をなくしている人を、一人でも減らす手段は本当にないのだ折ろうか?
世界の景気対策でG20が緊急に集まれるのに、目の前で連日、子供や一般市民の人命が奪われているのだから、G20でも30でも緊急に集まって対策を講じるのは物の順序。〈逆に、放って置く主要国の逆に景気対策の真意が心配になる)
 
国連の安全保障会議でも1国からでも、メディアでも、民間でもどこからでもいいから動けないのか?
 どっちがどうのは後にして両者に「3食、身の安全、怪我や病気」を基準にした支援や対策は全くないとは思えない。
 今は結果的だが強者のすることを放置している。
グアンタナモの虐待も同様で、これらに世界が関与しないのは、自らの自然法の放棄を意味しないか。
 自らが自然法を放棄して、報われないのは道理。
 しかし、このような解決の放棄も発展上の一つの形かもしれないが‥。

 
  
 


 
 
 
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