再度(専門家)

昨日書いた(専門家)が雑駁過ぎるので、もう一度書いてみたい。
 テレビを見ていると事ある毎に専門家としてよく大学教授や弁護士医師、などがが紹介され登場する。自分の知らなかったことが語られ、勉強になる面は確かにある。
ただ、全体的に違和感を感じたり、違うと思う事も少なくない。
 
学生時代多くの先生の講義を聞き、3年になってからは、教育学か心理学を選択し専門分野に分かれ、担当指導教官について卒業論文を仕上げて卒業した。 
 私の指導教官は、社会心理学の中の相談心理学(その当時に言い方)が専門で、今のカウンセリング理論を日本に紹介するような草分け的な研究者だった。
 一般に言われる【心理学】の中で教育関係の~心理学だけでも何十とあり、その中で更に細かく分野は木の枝のようにが分かれる。そしてどの教授もある分野の中でそれぞれ違ったテーマをもって研究している。大学では同じ分野、同じようなテーマの研究者には出会わなかった。だから【専門家】は自称、研究者の数だけいることになる。

(専門家)とはその特定の分野の特定のテーマに関して人より多くの情報を、体系だてて持っている人を指しているようだ。
人間の心理全体を対象にした心理学はないし、教育や子供全体を対象にした教育学はない。
 
 
 だから細分化された専門家がどれだけ集まって、パッチワークの縫い合わせても一人として子供の姿にはならない。

 子供が40人いたら40人、人格は異なる。
専門家は担当した分野の過去のデーターの情報をまとめて、マニュアル的に説明しても目の前の子供(達)とは一致しない。
 教育関係の教授が小学校や中学校の教員を養成する指導する専門家も自分が小中学校の教壇に立って指導できるかは全く別問題である。
 
機会があって心理学会と教育学会に顔を出した時、
 残念ながら両学会共、すり合わせの討論はない。ほとんどセレモ二ー的な運営だった。研究対象が違うから討論が難しいのだろう、互いに介入しない。
 教科担任制の中・高の先生方が他教科の先生の指導に口を挟まないのを(わきまえ)とするのと同じで、学会も相互理解しているのではなく、学者として棲み分けているようだった。
 教育を例に挙げたが他の分野の専門家も同じだろう。政治や経済も全体を研究対象にしている専門家はいないから全体がどうなっているかは専門家からは聞けない。
 だから、今日の日本や世界が予測できずにここまで混迷した経済や政治に陥ってしまったわけで、先を見当つけられる専門家がいなかったことになる。(専門家の最も大切な資質は予測できる事。)

社会の縦割り的な細分化は学問等の研究分野だけでなく、行政の縦割り的な仕組みや縦割り的な予算配分まで、官民問わず社会の可也隅々まで仕組みが出来上がっていると思う。
 個々人が既に縦割りに組み込まれていることを自覚し、自分を含めた全体を俯瞰して判断しないと、良かれと思ってもそうはいかない。
  今は情報も社会の仕組みもばらばらで全体をカバーできない。
  オバマ氏が哲学者か詩人のように(希望と真理)そして(我々は一つ)と訴えたのはそんな現状を見ているからだろう。
 彼が言うように、今,時代が我々に求め必要としているのは細分化された専門家の知識や言辞ではなく、常識的であっても全体的な真理真実ではないだろうか。
 
 
 

 
 
 
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