余白を埋めるもの

1昨日、「憲法と資本主義」の講演に満足しながら、内容の周辺に感じた余白(語られない内容)が何かを少し考えてみたい。
確かに我々は安全と平和、そして健康で文化的な生活を願っている。
 しかし、地球の現在を考えたら、 
 疫病、地球環境の異変、食糧不足は戦争以上に避け難くはないかと、これまで日記にも書いてきた。
 これは戦争と比べての事だが、日常的に突きつけられてる不安はそれにとどまらない。
 例えば、少子高齢化、自殺、子どもが不登校の形で公教育の外に放り出され発達障害の激増など、社会の重大問題とわかっていながら、解決する力がなく、対策が講じられない現状は我々の先々の何を意味しているだろう?
 上記は一例で社会の安全を脅かし、先々が立ち行かなくなるだろう課題は多く、これまでの戦争と平和の世界観ではとても間に合わない。
 そこを、コミットしない戦争や平和、どんな政治経済文化芸術も、我々を納得させない。
 
  これまで、多くの映画や芝居や、為になる?講演会や集まりは老人会の趣がなくもなかった。 しかし、立て続けに見た映画館は政治離れしていると言われる若者で満杯だった。
  余白をどう埋めるか?は年齢や立場に関係なく誰もが問われていないだろうか?
  とりあえず目の前の会話はたっぷり想像力を働かせてすることが必要なんだろうな。
 
 
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練習がいる。

このところ少し立て込んで映画を見に行くが、自然的、地球的、国家的と割合視野の広い話題のものが多い。そして若いお客さんが多いのも特徴のようだ。
(ちょっとしたら、先日良い?講演を聞い時、話の周囲に余白を感じたように、若い人も時代にそれと似たものを感じているかもしれない。)
 新聞やテレビに【地球】の言葉が登場する回数が増えている気もする。
 ただ【地球観察】と題したものでも言葉だけで実際はこれまでと変わらない視野で取り上げられているものもある。
個人も組織も練習がいる。

 
 
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戦い取る

洋の東西を問わず【戦い取る】の言葉は、与野党の別なく、権力のあるなしに関わらず、普通によく使われる。
 アメリカ大統領の就任演説では同時に(敵)の言葉まで用いられるが、日本でも同様の言葉遣いや行動パターンが見られる。
 イデオロギーにしろ、組織にしろ、個人にしろ、文化的には多様性が求められる。なぜなら文化発展の法則だから。
 だから、政治や経済も人類の文化だと捉えると、人類は立場を超えて発展の法則を無視しているところがあるかもしれない。
      期待のオバマも氏も、そこは半々だ。
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官僚批判の批判

どこの国であれ【官僚政治】が政治上、論理的にも実態的にも問題である事は言うまでもないが、政治家が国会の場で批判するあの神経はさらに問題ではないだろうか。
 目の前〈テレビ)で、国会の質疑をしている。
 質問者は原稿を手元において質問し、答弁者も原稿を持って登場し、読み上げる。
 すでに質疑応答が出来上がっている。お互いにそれを承知している。
 (学芸会の劇の練習でやる台本の読み合わせのようである。)
 役人が答えるような質問をし、与野党が役人の答弁書で済ませる政治家が、どうして国会の場で【官僚政治】と罵れるのだろう?
 
 与野党が【官僚政治】を取り戻すべく努力してほしいいが、今、目の前で言ってる事とやってる事が違ってる。【官僚批判】が【政治責任を】を曖昧にしたま政治の責任転嫁に使われてる現状では政治の責任を免責しかねない。
そこは与野党も、メディアも触れない。順序を追って、先ずは政治責任をはっきりさせてからにしないから、巷の空気も政治家と役人の責任を取り違え、この間の社会保険庁の役人の殺人や、自衛隊の不祥事も事務次官を切って終わらせている。組織の法的な責任は明らかである。

 
  
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理由はともあれ

気になる動きが多い中で、何ははともあれ良い動きも出てくるものだ。
 今朝の朝日新聞は、1~2面を使って,《ルポにっぽん》で<失業 漁の荒波に挑む> <派遣切り、家族4人抱え農家へ 月17万円の再出発><先見えぬ林業、それでも頼りに> 記事の後半には「農水産省は今回の不況を、1次産業へ雇用を呼び戻す機会と捉えて~」のコメントを付けていた。
 理由はともあれ、第1次産業への動きが強まるのは喜ばしい。そのうち政策的な休耕地に人が帰っていくだろうと期待している。
 第1次産業への移動は、日本だけでなく全体的に見られる一つの動きではないだろうか?
 中国が同じように工場が閉鎖され、出身の田舎へ帰る労働者が1000万とも伝えられる。これも、理由はともあれ言いことではないだろうか。
 ただこの動きと、ヒトビトの意識の間にズレがなくもない。
 【産業構造の転換】への動きを 意識的・政策的にしなければいけないのに、今は状況がその動きを作り出している。
 
 経済学者、政治家などの専門家や伝えるジャーナリストやメディアは状況について行けないのだろう。
 理由はともあれ、いいことはいい。新しい動きを促すものになるといい。
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