余白の感じ方

先日書いた余白は、書いたものの周辺に書かれるべきことが書かれていない余白だった。
<気も虚ろ>と言う言い方があるが、【余白】は自分の心や体でもぼんやりだが(空洞)に感じることがある。
 若い頃、仕事が忙しく走り回わっていた時期があった。周囲の目とは別に、自分のど真ん中に「空洞」を感じていた。
 小学1年の新入生も殆どは既に心のど真ん中に空白・空洞を持っているように感じ先ず始めの仕事はその殻を割り、ど真ん中をを確認する(させる)ことだった。
 中にはそれに1年以上もかかる子供もいた。
 特に子供達の書く日記にそれがはっきり表われた。
 子供が日記を苦手にした最も大きな原因はこれだったと思う。
 入学したての1年生でこれだから、大人の付き合いは押して知るべし。
 本人が空白を思い出し、埋めようとしても簡単には出来ない。
 その事を、お互いに承知していないと、いつまでも歯車は噛み合わない。
 国会論戦は歯車の噛み合わるせどころではなく歯車は別々に勝手に回っている。
 テレビでやる多くのワイドショウは言葉は調子よく噛み合い過ぎるぐらいにかみ合ってるが、背景になる現実・現状との隔たりが大きすぎ、的外ずれの空白ががしばしば見られる。
 両方の白いところを満たすのはなかなかだ。
 
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余白を埋める

 地球を俯瞰し人類のやってる事のおかしさと、「憲法と資本主義」の講演で感じた【余白】の額縁の中で我々は情報を持ち行動して生きていることになる。
 一つ一つにどれだけ余白を感じそこを埋められるかが
 一人ひとり問われることになる。
さもないと、足が宙に浮いた奇妙な人間と付き合うことになる。だから、政治ももメディアも、我々の言動も反転した方が意味がはっきりし、納得できるものが少なくない
 目一杯想像力を働かせ、耳を傾け見届ける以外にないが、実際は難しい。
 エラくなればなるほど、話を聞くのが難しくなる。
 だから、エライ人同士は話し合いがうまくできない。
 
 
 
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