どこか違う

学力だ、塾だ、進学だと、官民一体でまっしぐらに進んでいる感じである。
こうした中で、親も子供もそれから外れる事は難しい。
 ところで子供達に求める学力は、本当にこの社会が求めているものだろうか?
 学力は学力テストで判定される。
 40数年前、学校現場に入り、教師も、親も、子供も、テストに対する関心は自分が学校で経験してきた以上だった。確かにそれで、成績表をわたされ、学力が評価されるのだから仕方ないと言えば仕方ない。
子供の幸せを願えば、【教育ママ・パパ】も当然かもしれない。
 ところで、子供の学力(テスト)を上げるために誰もが用いる方法があった。
 国語なら漢字練習、算数なら計算練習である。
 進捗状況が誰にも分り、テストでは漢字と計算は必ず出題され、一定程度の点数は確保できる保障があったからだ。
学級担任も、学級平均を他の学級と比べるから、やたら漢字計算のスモールテスト
を繰り返し、宿題にする傾向があった。
 それは勤務した全ての地域と学校に言えた。
 中学高校大学と進めばそんな単純ではないが、大きな仕組みは同様だった。
 全体的な人間力の中で【学力】の占める位置がそうなっている。
 子供は小さいときからこの学力を求められそのために時間を費やす。逆にその間、他の発達や人間力を育てるチャンスをなくしていることを意味してる。
 説明するとかなり論証的になりややこしいいから、ここでは極単純化する。
 将来、どんな会社で仕事をしても、会社でなくても、どこでどんな仕事をしても、【漢字や計算】に象徴される学力がどこでも求められるだろう?
 どんな仕事も現場で求められるのは、コミュニケーション、応用力、創意工夫や想像性、精神的社会的能力のような、学力テストでは測れない、塾やドリルで奪われていたチャンスの中でしかつけられない力ではないだろうか。
 現実の社会は、大人が何て言おうと、学力や肩書きで通る時代は過去のものになってきてはいないだろうか?これでは産業発展、海外競争でも遅れを取るだろう。
 学力や大学名で仕事のできる時代は過ぎ、片肺飛行で最高学府を出て、リストラされても、行き場がない。
 海外に目を向けても、かなり多くのの先進国が教育のかじを既に切っている。
 外交、経済対策、医薬品、教育などなど、範にしてるアメリカやヨーロッパなどの先進国が舵を切っても、世界第2の経済大国が、もたもたしと切り換えられないでいるものが少なくない。
 東京の場合、銀行、オリンピック(これからだが?)教育行政、成熟した国際都市など、古い発想で失敗しているものも少なくない。
 
 
 
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情報と情報化

現代は情報化社会だと言われる。マスメデアメディア、通信機関、通信機器の発達で、世界の情報が溢れるように多くなったことはなった。
 ある意味で社会もにんげんんもすべての生き物も情報によって動いているとも言える。
 ところで、周囲にある客観的に存在する《情報》や我々に々にとって必要とする情報と情報化され【伝えられる情報】は異なる。
 人に認識され社会に必要とされる情報と人々に伝えられる情報化された情報の間には大きな開きを感じる。
 感覚的にはその比率は10:3ぐらいかと思う。
 要するに、伝えられるべき情報の中で実際に伝えられているのは半分以下の感じがしている。
 
 我々が目隠しされているとまでは思わないが、意図的に伝えられない情報や、元々の《情報が》が逆の意味で【情報化】されているものも少なくないから、我々は周囲の状況を知り必要とする情報を捉えるのが難しい中にいるのだと思う。
 社会の中でこれだけ予期されない事が次々起きるのはその証明ではないだろうか。
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