沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

旭山動物園と富良野

2024-07-26 | 国内旅行

稚内から240km走って旭川に着きました。今回の旅は1日200kmくらい走るのが平均なので、半日で240km走ったのは少し疲れました。

【旭山動物園】

水中のカバさんを見て、疲れが直ぐに取れました。

こっちに向かってくる-。


横を向いた-。

巨体だけど、水中ではピョーンと身軽だ。

短い後ろ脚。使わずに移動してる。
陸上にいるカバの姿からは全く想像できない、飼育員だけが知る動きを来園者に見せるのが旭山動物園。

あざらし君とご婦人。
ペンギン君たち。
今、清掃中なので、大人しく待機中です。

陸上ではヨチヨチ歩きだけど、水中では空飛ぶペンギンになる。

こぢんまりした動物園で、説明ボードも手書き。でも見応え十分でした。
 
【展望花畑 四季彩(しきさい)の丘】 
美瑛(びえい)町にある。アイヌ語で「ピ・イェ」(油のある所)から来ている。
なだらかな丘と樹林、農作物の黄色や緑がパッチワークを作る景色が美しい。
正面は富良野岳、雲に隠れた十勝岳。10月~6月は入園無料。
 
ナデシコです。これからどんどん成長し、お盆の頃が圧巻だとか。

花菱草(カルフォルニアポピー)
植え付けています。腰が疲れそうです。大変だね。

ペチュニアだね。
これを大きくしていくって、水やり、施肥、雑草取りなど管理が大変だ。


コレを考えた人は偉いね。遠くの農作物とスケール感が繋がってるね。
北海道の風景が、ここで花畑に変わる。

ラベンダーです。

【ホテルナトゥールヴァルト富良野】
50品目食べ放題に飲み放題。焼き肉、ホタテ・カニ海鮮焼き。胃袋が二つほしいー。

食後は談話室でコーヒーを。スキー場のロッジだね。
ゲレンデに面した、家族連れに人気のホテルでした。温泉もありお勧め。
翌朝は、富良野に戻ります。
 
【日の出公園ラベンダー園】
上富良野町にあります。
富良野は、アイヌ語で「フラヌイ」(臭いの強い所)、または「下る川」を意味する「フラ・ヌィ」から来ている。
どっちなんだろーね。

ここは、ラベンダーだけを植えてます。開花時期をずらしているのかな。

ブルーキャットミント。 「かみふらの日の出公園」が正式名なのかな。

コレは何?絵画かな。

小屋の中から外の景色を撮影すると、まるで額縁に入れた絵のように見えます。これは「ピクチャーウインドウ(写真窓)」と呼ばれます。窓枠が額縁の役割を果たし、外の景色を切り取って絵画のように見せるんです。とてもおしゃれですよね。

近づくと、絵画も大きくなる。(当たり前だった)

【ファーム冨田】
中富良野町にある。
富良野市と上富良野町と中富良野町は、昔は一つの村(富良野村)だった。
しかし、中富良野は湿地帯で土地改良が大変だったから、上富良野が中富良野を切り捨て分村したらしい。
1958年、冨田氏(開拓者の子孫)はラベンダー栽培を始めました。香水用のラベンダーオイルを作るためです。1970年には、北海道全体で5トンのラベンダーオイルが生産されましたが、その後、合成香料や貿易の自由化によって価格が下がったため多くの農家はラベンダー栽培を断念し、ラベンダー栽培農家はほぼファーム冨田だけになってしまいました。

1971年、ラベンダー畑の風景が国鉄のカレンダーに掲載され、全国に紹介されました。その結果、観光客が次第に訪れるようになりました。ファーム富田は、ポプリ、オリジナル香水、石けんなど製品開発も進め、観光農園として事業を拡大しています。


ファーム冨田は入場料無料です。

ラベンダーソフト350円。ラベンダーティ360円。リーズナブルな価格

外国人観光客も多かった。

ラベンダーオイルの製造機器。

二階のショップではラベンダー香水なども販売していました。
開拓精神を感じました。

稚内から旭川へ

2024-07-23 | 国内旅行

【離島行きフェリー】

630発礼文島行きサイプリア宗谷号、715発利尻島行きアマポーラ宗谷号が見えます。

離島航路なのに、村営では無く民間フェリーです。それに稚内が出発拠点。旅行者には便利です。

沖縄のフェリーは村営。離島が出発拠点だったので、1日1往復の島だと離島に行くのは不便だった。


【稚内駅】
宗谷本線の終点、新しくなってます。

最北端の線路 最南端から北へ繋がる線路はここが終点です。
宗谷本線稚内駅 昭和3年12月26日開駅  指宿枕崎線西大山駅 昭和35年3月22日開駅 
と書いてある。

運賃表を見て、びっくり!
稚内から札幌まで約400kmで10,560円(特急自由席)
東京ー名古屋(のぞみ利用)約366kmも10,560円で、同じ料金。
北海道は広いというか、県庁に行くのも片道1万円もかかるのでは経済的に大変だ。
所要時間は、札幌まで特急で5時間。のぞみは東京名古屋間が1時間40分。
懐かしい夜行列車はダイヤから消え、今では夜行バスになっている。

駅を突き抜けて、線路は北に延びていた。

【稚内港北防波堤ドーム】
線路の先は防波堤ドーム。
1936年に完成。樺太がまだ日本だった戦前の話。ここから樺太行きの船が出ていた
波しぶきを避けて安全に船に乗れるよう作られた。
稚内から樺太(サハリン)までの連絡船は、当時は8時間かかった。

ガソリンを26L給油して、国道40号を通って、旭川を目指します。
【道の駅なかがわ】
岡山から自転車で来た青年と会いました。若い冒険家だ。
【北海道命名の地】 音威子府(おといねっぷ)村
谷沿いに「北海道命名の地」の看板を見つけた。
探検家 松浦武四郎が松前藩や幕府の命を受け蝦夷地を探検。アイヌ民族・文化を研究し、アイヌ文化を知って理解して貰おうと尽力した。
松浦は、北海道の地名9000箇所をアイヌ人への聞き取りによって収集した。
音威子府を探検中に、アイヌ語の「カイ」が「この土地で生まれた者」を意味すると教わり、1869年に「北加伊(カイ)道」)を考案。それが北海道になった。
偉大な人だ。
 
【道の駅びふか】
約3時間かかって、到着。
美味しそうな牛乳、かぼちゃあんパン、チーズクリームパン、人気の揚げたてコロッケ(北あかり)。

入口にパンが並んでいて、正面では何種類も揚げ物。いいね。

高速道路はまだ一部だけ。道の駅で休憩しながら走行します。

【道の駅もち米の里☆なよろ】
看板商品の「ソフト大福」は何種類もある。もち米で作った大福、美味しいよ。
近くの幌加内(ほろかない)町は日本一のそば生産量(作付面積・収穫量)だと。お世話になってます。
こちらはもち米だね。
もち米を作るときは、稲の花粉が混ざると品質が落ちるので、地域で一斉にもち米に取組んでいるんだね。

【面白いバス停】
これなんだろう。「42線」
羊さんじゃ無くて番号の方。バス停の数字が39線,40線,41線、42線と変わっていく。
調べると、開拓時代に農地整理が行われた際、土地が整然とした碁盤の目状に区分けされたため、番号の付いた「線」や「号」で呼ばれ、今も続いていると。

こちらも、味のあるバス停。さび付いてるね。
運行会社は「士別軌道」
「軌道」とあるが、既に鉄道事業は廃止され、今ではバスだけを運行。
行き先が士別とスクール。調べると、学校路線の巡回バスのようだ。
沖縄でも、学校の登下校時間帯だけ運行するバスがあったね。

続く。

サロベツ原生花園

2024-07-17 | 国内旅行

【利尻礼文サロベツ国立公園 サロベツ湿原センター】

環境省のビジターセンターと湿原を歩いて回れる木道があります。

なかなか良い施設です。豊富町にあります。


サロベツはアイヌの人達がサル・オ・ペッ(湿原を流れる川)と呼んでいたことに由来します。
面積6700ヘクタールの広大な湿原。ラムサール条約にも登録されている。
正面の山は、利尻島の利尻山。利尻富士と呼ばれている。

【エゾカンゾウ】
調べたら、禅庭花(ゼンテイカ)の別称で、各地ではニッコウキスゲなど別々に同定されて名前が付いているらしい。

一つの花は一日しか咲かず、朝に咲いた花は夕方にしぼむが、次々と開花するため長い期間花を楽しむことができる。サロベツ原野のエゾカンゾウの大群落は有名らしい。いいね。

木道は、ゆっくり歩いて30分で1周できる。

ビジターセンターに戻ったら。木道を歩く前にチェック。
見たのはニッコウキスゲじゃ無かったと思ったが、今になって、同じ花だとわかった。DNA情報による植物分類とかしてるのかな。同定は難しいね。
【泥炭産業館】
サロベツ原野には植物の残骸が分解されず堆積しており、泥炭地として資源開発された時期がある。石炭の一種で乾燥させれば石炭のような燃料にもなる。ビジターセンターの隣に泥炭産業館があり、その歴史などが良く分かる。

【道道106号線】
日本海沿いを走る道道106号線に戻り、北を目指す。
自転車とすれ違ったので、一枚撮りました。
この風景が見たかった。こういう景色を走ったら、ずっと忘れられないだろうね。

助手席から写して貰った。果てしなく続く道。いつまでも走っていたい。

宗谷本線の車窓から見て、ここは日本なのかと衝撃を受けた風景を思い出す。
抜海駅は乗降客が少なく、今年度末で廃止が決まったそうです。さみしいね。

【浜勇知園地】 稚内市抜海
森繁久弥さんの歌碑がありました。
「浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 砂丘の涯の海に立つ富士」森繁久弥

小さな池がありました。夏にはコウホネという睡蓮に似た花がさくので、この休憩所はこうほねの家と呼ばれています。
利尻富士がきれいです。

冬場は厳しいのだろうと想像します。地吹雪等で視界が悪くなることが多く、通行止め規制されることがしばしばあるそうです。

【ノシャップ岬】
アイヌ語のノッサム(岬のそば)が語源だそうです。ここで日本海は終わりかな。
【エゾジカの帰還】
稚内市内の宿泊先に行こうとしたら、ちょうどエゾジカ家族も家路に着くところでした。
ホテルの夕食はブッフェ形式で、カニやホタテも食べ放題。

オホーツク海です。北防波堤ドームが見えます。

もう夜明けです。緯度が高いと、朝が早いなあ。

日の出は、午前3時47分! 
朝食は、午前5時30分!!

羽幌炭鉱

2024-07-10 | 国内旅行
【オロロンライン】
道の駅おびら鰊番屋で、タコ専門店の美味しそうなおつまみを購入。
袋の裏に、良く分かる地図があった。オロロンラインは、鳥の名前が由来。
小樽から稚内までの海沿いを走るオロロンラインは距離が長く、一日ではたどり着けない。
小平町のやや北に位置する羽幌(はぼろ)温泉を目指す。
【羽幌】
名は、アイヌ語のハポロペッが由来らしい。
羽幌は、かっては国内屈指の炭鉱の街だった。
今では、甘えびの水揚量が日本一らしい(羽幌町HP)。
 
【はぼろ温泉サンセットプラザ】
源泉掛け流し温泉がある。温泉は、道具持参で地元の方も利用してた。
夕食がいいね。ビールを少しと熱燗だね。
はぼろは、炭鉱の街だった。山の中に遺跡があるらしいので出かけてみた。
【羽幌炭鉱】
1874年、石炭鉱脈が見つかるが輸送手段がなく、各社による小規模な採掘。
1941年、羽幌炭鉱鉄道が、炭鉱と鉄道を一緒に行い、国鉄羽幌線の羽幌と結び地域の足となった。
良質石炭を年間100万トン産出する一方で、ジャンプ台建設やスポーツ振興など地域発展に貢献したが、断層にぶつかったこと、石炭鉱業再建整備臨時措置法の期限等を理由に、1970年閉山を決定。
3000万トン以上の資源と7500人の関係住民を残して、30年で鉄道も廃止(バス転換)された。
 
この巨大な建物は、採掘した石炭を貯蔵する貯炭場。
こちらは50年前の住宅の跡だね。
人はいなくとも、家の周りには残された草花が美しく咲いていた。

羽幌炭鉱鉄道病院の跡。
大倉山ジャンプ台と同じ大きさのジャンプ台があり、羽幌炭鉱スキー部には笠谷昌生(札幌五輪ジャンプメダル独占時のコーチ。金メダルは弟)が所属していた。
炭鉱アパートは、「幸せの黄色いハンカチ(1977年)」のロケ地になった。
1969年に完成。水洗トイレ完備。家賃、光熱水費は会社負担。住民の入居は1年だった。
羽幌町へ戻る。
羽幌鉱山鉄道(廃止)の線路の橋脚が残されていた。
 
【羽幌町郷土資料館】
羽幌炭鉱や鉄道の歴史が良く分かる。

開坑と鉄道建設

写真に、当時の人々の暮しがあった。
【オロロンライン】
羽幌から稚内を目指して、海沿いの道を走る。
牛がいた。のどかで、健康そうだ。
国鉄羽幌線(廃止)の線路の橋脚が残されていた。
【天塩町サラキシの漁港】
アイヌ語で葦のたくさんあるところの意。
【オトンルイ風力発電所】
オトンルイは、アイヌ語で「浜にある道」という意味がある。
幌延(ほろのべ)町の風力発電プロジェクトに基づき、3セクで設置。後にJFEに売却。
高さ99メートルの風車が28機、長さ3キロにわたり並ぶ。西風を受けてヒュンヒュン回る。

【幌延深地層研究センター(日本原子力研究開発機構)】
高レベルの放射性廃棄物(いわゆる核のゴミ)の最終処分には地層処分技術の開発が必要で、ここは堆積岩のモデルとして期限を決め調査研究だけを実施していた。
人工バリア(ガラス固化体、オーバーパック、緩衝材)で1000年以上外部と遮断する技術。

人工バリアの実物模型。
国内では堆積岩と結晶質岩の2箇所で調査研究しているが、両者の結果に違いがあるのだろうか。

石狩挽歌と鰊番屋

2024-07-08 | 国内旅行

【石狩挽歌記念碑】

なかにし礼の実家があった小樽市。

青山氏の鰊御殿(貴賓館)に石狩挽歌記念碑があり、なかにし礼直筆の歌詞が彫られている。

1975年のヒット曲だが、記念碑建立が22年後の1997年になった理由は、1996年に兄の中西正一(森田童子の父)が72歳で死去し、ようやく記念碑建立に応じたと、なかにしは『兄弟』に記している。

【石狩挽歌は中西一家の実体験だった】

兄の正一が、小樽の実家を担保に借金して増毛の網元からニシン漁の権利を3日間借りた。

最終日の1947年3月22日の未明。魚が入らず失敗したと中西家全員があきらめたときに奇跡が起きて、遠くの海から大量のニシンが、網に押し寄せる奇跡が起きた。兄23歳、礼8歳の時だった。

海猫が鳴くからニシンが来ると、ヤン衆(ニシン漁の出稼ぎ漁師)が騒ぐ。

雪に埋もれた番屋の隅で、私は夜通し飯を炊く。

燃えろかがり火 朝里の浜に 海が銀色ニシンの色よ。

ソーラン節に頬そめながら 私は大量の網を曳く。

 
【ニシン漁の衰退】
ニシン漁は1910年以降、北海道西側沿岸で栄え、漁で財を成した網元によるニシン御殿が各地に建ったが、1955年以降、すっかり獲れなくなってしまった。
挽歌とは、死を悼む歌。石狩地方のニシン漁が途絶えたことを歌う悲しい歌なのだった。
 
あれからニシンはどこへ行ったやら オタモイ岬のニシン御殿も今じゃさびれて オンボロロ オンボロボーロロー沖を通るは笠戸丸 私は涙でニシン曇りの空を見る
 
【増毛町の朱文別の浜】
増毛は、アイヌ語のマシュケ(カモメの多いところ)が由来。
77年前、中西正一は朱文別のニシン漁で1ヶ統(幅20メートル、長さ60メートル)の権利を3日間買った。増毛には100ヶ統以上あり、ニシンが入ったとしても百分の一の確率。
一攫千金のギャンブルだ。鰊の大群が押し寄せる群来(くき)の時は、明け方の海が乳色・銀色に染まる。
 
しかし、今では、海岸浸食から守る離岸堤が沖合に並び、海岸にはテトラポット。もはやニシン漁が行われることはなさそうだ。


【日本最北の酒蔵】
増毛にある国稀(くにまれ)酒造。日本最北にある酒蔵。


清酒も美味しいが、酒粕焼酎「泰蔵」も人気だ。

【国稀の蔵元限定商品】
  • 国稀 酒粕焼酎泰蔵 木樽貯蔵(30度)
スコッチウイスキーのような香りと琥珀色が飲んでて楽しい。
 
【ニシン丼】
石狩市の道の駅厚田で頂いた。
【恩納村のお土産】
石狩市は沖縄県恩納村と友好都市。懐かしいシークワーサーポン酢やじゅーしぃに出会えた。

【旧花田家番屋】
増毛の北に位置する小平(おびら)町にある。アイヌ語のオッペが町名の由来。
「道の駅おびらニシン番屋」に隣接する国指定重要無形文化財が花田家のニシン番屋。
北海道最大の規模で、往時は200人の雇い人が生活できた。

夜通し飯を炊く。




漁の道具も展示されている。

ニシンを背負うもっこ。
小さいのは子供用。


【北海道の鰊番屋】
 
 
【礼文島の鰊番屋の思い出】
私の最初の北海道の宿は、1977年9月24日(土)礼文島の桃岩荘YH。ニシン番屋だった。
前日、羽田17:15発の全日空で千歳に、21:10札幌発の夜行で稚内に早朝の6:25到着。
夜が明け始め車窓から見えた景色は、森林も家もなく大平原と砂丘。
8:10発の定期観光バス3時間コースで、最北端の地、稚内公園、ノシャップ岬を巡った後に、稚内12:40発のフェリーで礼文島15:10着。迎えのジープに乗り、海岸沿いのニシン番屋を利用したユースホステルに16:20到着した。宿泊者は50名程だった(当時の旅日記より)。

北海道オロロンライン

2024-07-06 | 国内旅行
北海道西北部を日本海に沿ってオロロンラインを北上してきました。
小樽、羽幌、稚内、富良野、札幌の5泊6日で走行距離1180キロ。
 
目的はいろいろありますが、
1)鰊(にしん)番屋 2)サロベツ原野 3)旭山動物園 4)富良野ラベンダー 5)エスコンスタジアム 6)北海道博物館・北海道開拓の村・ウポポイ など。
新札発行でHBC取材、空港直行バス運休など思いがけない出来事もありましたが、よき旅でした。
 
【小樽総合博物館 運河館】
  • 小樽に運河があるのは何故か。
  • 日本銀行小樽支店を始め各銀行が設置され、北海道の金融経済の中心となった理由は何か。
小樽と言えば小樽運河と倉庫。北前船主が建てた倉庫が博物館になっています。
運河館で目を引くのが立派な屏風絵小樽から約100km北の留萌郡小平(おびら)町の花田漁場で行われたニシン漁1903年に描いたもの。翌年開催された米国セントルイス万博に出展された。

屏風絵には、ニシン漁場の仕事の様子が緻密に描かれており、それを紹介する。

定置網に押し寄せるニシンの大群を大タモですくい上げる作業歌が、ソーラン節の起源となった「沖揚げ音頭」
ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン
にしん来たかとカモメに訊けば  わたしゃ発つ鳥 波に聞け
チョイヤサエンエンヤーーーァサーァノ ドッコイショ  ハードッコイショドッコイショ
どう考えたって大変疲れる作業。腕や腰を痛めるね。かけ声で重労働をがんばる。

ニシンは一斉に来るので、学校も休みになり、お金にもなったので周辺の人々が手伝った(花田番屋)。

実際の写真を見ると、まあ大変な様子です。絵なので、ここはきれいに描かれています。

カズノコは栄養価も高く貴重ですが、当時は干物にしたようです。

状態が良い大きなニシンは頭や内臓を取り除き、見欠きニシン(ニシンの干物)
一尾ずつ手作業だが、貴重な保存タンパクとして内地に北前船で送られ、大きな収入源となった。

見欠きにはできないニシンは肥料に。ゆでて、油を抜いて、絞って、乾かして。

ニシン粕(煮沸したニシンから魚油を搾り取ったかす)は、肥料として大変重宝され、北陸や西日本に運ばれ、稲、ミカン、菜種、綿花などの肥料になった。

押し寄せるニシンの大群を漁場で待ち受けた大勢の人が加工して小樽へ運んだ。
北陸など北前船の船主達が、海を埋め立てて運河を作り、倉庫を建てた。
倉庫の保管料で稼ぐとともに、北海道への移民者が求める物資を北前船で運び、栄えた。
ニシン漁場の写真 (余市)
下は、群来(くき)と呼ばれ、ニシンの群れが押し寄せているところ。

小樽市鰊御殿(にしんごてん)
断崖の上にある赤い建物。土砂崩れで防止対策しており休館中です。
こんな断崖絶壁です。
貴賓館(旧青山別邸)
青山家は、ニシン漁で巨万の富を築き繁栄した。これは娘のための別荘(国の登録有形文化財)。
日本銀行小樽支店の金融資料館
新札発行の展示を見ていたら、HBC北海道放送「今日ドキッ!」の取材を受け驚いた。
どこから来たか。日銀小樽支店を知った理由。来週から発行される新札についてどうも思うか。デザインについてどうか。偽造防止策についてどうか。
など詳しくインタビューされました。丁寧に答えましたよ。

軽井沢のお勧め

2024-06-19 | 国内旅行

軽井沢に行って来ました。

本屋で旅行ガイドを購入し見所を探したのですが、決め手が無い。

昨年、軽井沢駅北口の観光案内所で、見所を教えてもらったので、そこへ行くことに。

【見晴台】
碓氷峠の上にある見晴台から、妙義連峰がきれいに見えます。
空気も良いし、景色も良いし、お勧めですね。

カーナビには「見晴台」が登録されていないので、近くの神社の駐車場から数分歩きました。
【県境の神社】
神社にもお参りしましたが、なんか不思議な神社です。
長野県と群馬県の県境に立地するため、神社に境界線があり、名前まで違う。
左側の長野県は、軽井沢皇大神社
右側の群馬県は、熊野神社

【白糸の滝】
カワガラスの雄が、水中を潜って泳いで餌を採って、献身的に雌に渡していました。
人間と同じですね。

【軽井沢72ゴルフパターコース】
天然芝のグリーンの芝目や傾斜を読み、どのくらいの強さでパットするか、ゴルフの醍醐味でもあります。
初心者でも本格的グリーン18ホールを楽しめます。靴は尖ってなければ履いてる靴でOK。パターのレンタルあります。

【モミの木】
ゴルフ場近くのおしゃれなカフェ。
ケーキ屋さんを子供に譲り、老夫婦が軽井沢に移住して良心価格で運営。
チェロが置いてあります。テイクアウト用のクッキーが安価です。
リンゴのシブースト550円、コーヒー550円。
安価ですねというと、銀座で修行したご主人が「人件費無しなので」と笑ってました。
【リス】
逃げなくてもいいのにと思いますが…。
【建ぺい率20% 容積率20%】
軽井沢は、別荘地をして広く知られているため、山林だろうが別荘地になってしまう。
そのため、無秩序な開発を抑制するために、建ぺい率20% 容積率20%の規制がある。
敷地面積の2割しか建築敷地にできない2階建てなら建築敷地の1割だ。
この規制の効果で、建物間に十分な広さが確保され、林間の中に別荘地があることになる。

【地粉そば処みのり】
エゴマそばです。ごますりして、おそばを待ちます。
「人生はごますり棒だ。擂るたびに減っていく…」という歌があったなあ。
擂ったえごまに汁を加えて、これは美味しいです。

【カーシェア】
現地での移動は、タイムズのカーシェア。
ネットで予約して、満タン返しも不要。レンタカーより安価で便利です。
軽井沢は東京から新幹線で1時間強。便利になったモノです。

【信越本線】
昔、長野の住んでた頃、東京の会議が終わり、21時発の急行4時間かかって25時長野着。
20時発の特急なら3時間で23時長野着があったが、支給された交通費は急行料金だった…。
信越本線の峠の釜めし。
碓氷峠の急坂を登る牽引車を連結するため、長い停車時間があり、ゆっくり買えたなあ。
【美術館】
安東美術館(藤田嗣治の作品) 昨年行きましたが良かったです。
軽井沢千住博美術館(千住博の作品)今年行きましたが良かったです。

神代植物公園と深大寺

2024-03-03 | 国内旅行

神代植物公園と深大寺に行ってきました。両方とも「ジンダイ」と呼びます。

神代植物公園

(経緯)

この辺りは戦前は神代村で、空襲による火災延焼防止に備えるため、東京市が広大なグリーンベルトの防空緑地を東京市郊外に整備した。

ここの防空緑地の名称が「神代緑地」で、戦後の農地解放(食糧難のため緑地で小作していたが、GHQが小作人に払い下げを指示)で民有地になった。

しかし、都市計画では緑地決定されていたため、東京都が再び土地を買い戻し公園を整備し、神代植物公園となった。

正門左手の植物会館です。
牧野富太郎の著作がありました。

葉、茎、花、果実、種子が断面図も添えられています。
植物の特徴を精緻に観察・描画し、分類し、標本を作製する


植物採集し、標本と比べて、種を同定し、未知のものは調査を重ね、新種を見つけたら発表していく。
この一連の作業を効率的に進め、日本中の植物の名前を明らかにしていく上で不可欠なのが植物図鑑
牧野日本植物図鑑を、私財を投じて作った日本の植物分類学の父です。


植物研究雑誌も刊行しています。
 
公園内の植物は、開花の準備の真っ最中で、梅林に多くの人が集まっていました。


園芸目的で品種改良された、たくさんの梅が咲いています。
八重咲きもあるのですね。
こちらは花が多くて、桜に近い感じです。

花を求めて、大温室へ。睡蓮。

ブルグマンシア・ベルシコロルだそうな。
「エンジェル・トランペット」の方が覚えやすいですね。

ヒスイカズラ 翡翠色の植物は珍しいですね。

ベゴニア室です。 落下した花を水面に浮かべています。

ベゴニアの花って、小さいと思ってたけど、こんなに大きいものがあるとは。
 
「ベゴニア」の由来は、カリブ海にあるフランス領アンティル諸島のベゴン総督の名前
ベゴン総督が植物学者プリュミエをこの地域の植物採取者としてルイ14世に推薦してくれた。
恩義を感じたのか、1700年に出版した書物の中で「ベゴニア属」として紹介した。
ヴェルサイユ宮殿に飾られて、多くの人々を驚かせたに違いない。

花だけではわからないが、茎をみると弱々しいベゴニアだね。

深大寺
400年の歴史を持つ深大寺そば玉乃屋さん。

手打ちの十割そばです。コシがあって良いです。つまみ山菜に熱燗1本。

「門前の 蕎麦はうましと 誰もいふ この環境の みほとけありがたや」 (清水比庵)歌碑


本堂です。

山門から境外に出ました。
水路にビールケースと板を乗せて。これはやっぱり、明日の準備かな。あちこちで場所取りです。

「だるまさんが嗤った」
だるま市が明日、あさって開催で、たくさんの人出がありそうです。


鬼太郎茶屋
水木しげる氏の第二の故郷、調布市「深大寺」門前に妖怪グッズ、ゲゲゲの鬼太郎び世界。
バス通りの梅もきれいに咲いていました。

小田原から箱根

2024-02-09 | 国内旅行

小田急電鉄に乗って、箱根に行ってきました。

小田急の特急と言えば、赤い車体の展望台があるロマンスカーと思っていましたが、ブルーの車両。

しかも、特急ロマンスカー・MSE(60000形)は運航15年記念で、地下鉄にも乗り入れしてるらしい。初めて乗ったけど…。

 

箱根は、月曜日の大雪で何も出来そうもないので、往復、小田原観光しました。

小田原駅から徒歩10分程度に、小田原城があります。


ロウバイが咲いてました。

天守閣に向かいます。正面に大きなマツがありますね。

お堀で、花菖蒲の手入れをしているのかな。

戦国時代の古図に描かれ、現存する唯一の松。樹齢400年以上だね。
1590年の小田原合戦で豊臣秀吉の前に、小田原城は開城し、秀吉の天下統一となった。

早咲きの河津桜。

天守閣。貸衣装の赤い甲冑を身につけた外国人観光客。

天守閣からの眺望。

最近リニューアルされた展示映像が、とてもわかりやすかったです。

小田原駅。新幹線と東海道線の貨物列車が見えます。
 
「ミナカ小田原」です。城下町の再現と背後の14 階タワー棟が一体化した再開発事業。

小田原みなと食堂で地魚刺身定食。肉厚で美味しい。
城下町の3階にある金次郎広場。この先、まっすぐ進むと小田原駅に接続し、便利です。
シュークリームも人気です。



薪を背負って本を読む銅像の二宮金次郎が、ここでは、夫婦。
「映画二宮金次郎 夫婦像」で、映画のテーマに。藩の財政再建だけでなく、600以上の村の農業基盤改善に取り組み、多くの人々に豊かさをもたらした。

箱根のホテルから。雪景色と温泉露天風呂で癒やされます。
箱根と小田原間は、ホテルの送迎バスで45分。この険しい上り下り道を、箱根駅伝の選手たちは疾走する。小田原中継所は蒲鉾屋さんの駐車場。大変な競技だね。

小田原駅の階段です。
小田原城は、1501年北条早雲が進出後、約100年間にわたり北条氏の拠点となった。
広く関東地方を支配下に、難攻不落、無敵の城といわれ、1561年上杉謙信、1569年武田信玄の攻撃に耐えた。

【JAL】機内安全ビデオ~皆さまの安全のために~

2024-01-12 | 国内旅行

燃え上がるJAL機をみて、誰もが乗客・乗員の被害を想定したと思う。

脱出に関する報道は一切無く、NHKは機体が燃えつきるまで中継を続け、トラウマになりそうだった。

民放が最初に「乗客乗員が全員脱出」を報じ、事実確認に時間を要したNHKの報道はずいぶん後だった。

燃え続ける機体からは信じられない、「乗客・乗員全員脱出の奇跡」が生まれた。

 

客室乗務員の適切な行動と、それに従った乗客の冷静な行動が、奇跡につながった。

冬の札幌から到着。東京も外は寒いし、貴重品もある。客席上部の棚に収納したコートや貴重品の入った手荷物を取り出したい人も多かったはずだ。

 

「脱出時に、荷物は持たないでください。」

CAの鋭い言葉が、全員の命を救った。

 

CAが救命道具や酸素ボンベの使用方法を実演してたのは昔のことで、今は機内に映像モニターが装備され、安全ビデオが定期的に更新されている。

JAL機を愛用しているので、機内安全ビデオは何度も見たが、今回の奇跡は、改良を重ねた4分間の安全ビデオの効果が大きいと思う。

 

アニメで要点を、男性の声でわかりやすく説明し、英語は女性の声だ。

特徴的なのは、CAの説明はわずか4回。しかし、印象的で耳に残る

1)「安全について説明しますので、必ずご覧ください。」冒頭

  CAは両手を前に組み、毅然としている。

2)「緊急時は、乗務員の指示に従ってください。」 1分15秒

  CAは両手を組み、鋭い声で緊急時の説明開始を知らせる。

3)「脱出時に、荷物は持たないでください。」   2分35秒

  CAは一歩前に出て、両手を拡げ、厳しく鋭い声になる。

4)「どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。」   3分30秒

  CAは両手を組み、穏やかになり、軽く会釈する。

 

【JAL】機内安全ビデオ~皆さまの安全のために~

地震被害のあった金沢放送局に、昔勤務していたNHkの女性アナウンサーが、鋭い声で津波避難を呼びかけたことが話題になったが、この安全ビデオのCAの声も、強く印象に残るので、同じくらいの効果があるのではないかと思った。

 

ANAの機内安全ビデオは、画面右下に手話が入っているのが特徴だが、JALのようなメリハリがない。

一律的な説明では、緊急事態に、どれだけビデオの記憶を蘇らせることができるのか。

ANA 機内安全ビデオ【2021.11.01~】

 

機内安全ビデオは、航空各社それぞれが工夫しており、楽しみのひとつである。

台湾のエバー航空も面白かった。しかし、JAL機のような、緊急時のメリハリはない。

エバー航空A330-300機内安全のご案内_ 機上安全宣導片(中日台發音)

JAL機が奇跡を起こした、大きな要素だと思う。


ひがし茶屋街と金沢の食事

2023-11-24 | 国内旅行
「ひがし茶屋街」
金沢城の東側に位置し、寺院の参道周辺に伝統的町屋が建ち並ぶ。
江戸時代の伝統的家屋を保存するため、文化財保護法に基づき、文化庁が重要地区に選定(東山ひがし伝統的建造物群保存地区)。

「茶屋」

茶店やカフェではなく、江戸時代の社交の場芸妓が客をもてなす場所

裕福な商人や町衆が集まり、公的な職務を担う武士は出入りを禁止されていた。


和服を着た人がいる。芸妓さんかな。観光客への着物レンタルサービスとは違うようだ。

外国人が多い。人がいなくなったわずかな隙に、カメラを構えた。

着物姿は、風情があって良いね。きんつばのお店みたいだ。


歩いてホテルに戻る。

【徳田秋声記念館】
時間外で入れなかったのが残念。
徳田秋声の「町の踊り場」は、金沢の姉が死去し、葬儀のため帰省した体験を描いた。姉の家を抜けだして裏町のダンスホールに立ち寄ったりする奔放な行動が、満洲事変後の戦争に向かってゆく時代や、古い文化と新しい文化が交錯する金沢の街が鮮やかに浮かび上がる秋聲珠玉の短篇で、川端康成が高く評価した。ダンスホールは、ひがし茶屋街のことだね。

浅野川を渡る。

ホテルの能登牛会席お献立
芸妓さんはいないけど、地ビールに地酒(加賀鳶・超辛口)。前菜とお造り

能登牛陶板焼き

牛タン味噌煮込み

鰻の蓮蒸し

氷見うどん能登牛握り

水菓子

2泊目 のどぐろ北陸近海会席 連泊お献立
前菜とお造り

のど黒塩焼き

甘鯛オランダ煮
香箱蟹 蟹酢ジュレ

茶碗蒸し

氷見うどん にぎり寿司

水菓子

連泊だと、献立を変えてくれてありがたいです。すっかりごちそうになりました。
朝食は、ブッフェで洋食と和食。


金沢城に隣接した、便利なホテルでした。

最後の昼食は、再び駅ビル金沢百番街2階の「廻る富山湾すし玉」。かがやき盛り。
20組待ちだったので、受付に名前を書き、お土産を購入して、約1時間後にご馳走に。
金沢は、寿司が美味しいね。

それに、隣接の100MARTでは、「手取川 純米大吟醸 本流」が1割引だった。うれしいね。


石川の伝統工芸王国を探る

2023-11-24 | 国内旅行

金沢は、美術工芸の街で、文化的基盤を生かし、国立工芸館を招致できた。

町並みは美しく、伝統的な建築物が保全され、一度埋めた水路も復活させている。

国立、県立、市立、私立の博物館・美術館がたくさんある。

加賀藩は、加賀百万石と言われ財政豊かであった。それが文化的な豊かさの理由なのか

 

調べるために、石川県立歴史博物館に行ってみた。

赤いレンガの建物旧陸軍兵器庫を活用。陸軍は、兵器庫さえ立派なレンガ造にするほど金沢に気を遣ったのか。

47都道府県で唯一空襲を受けていない石川県。米軍は、文化財を攻撃しないことを知っての作戦だろうか。

左が、県立歴史博物館。右が、加賀本多博物館
中央が、辰巳用水の石管犀川から10キロ導水し、兼六園に水を配し、兼六園の霞が池から逆サイフォンの原理で金沢城へ揚水した。
一旦下がって、また揚がる。二の丸は空堀だったが、火災防止を理由に水が入ることに。
 

加賀藩が100万石になった経緯とその維持

  • 織田信長から、能登一国を与えられる。
  • 豊臣秀吉から、北加賀二郡と越中三郡を領土をもらう(越中は富山県)。
  • 徳川家康から、関ヶ原の戦い後に、南加賀二郡を得て、領地は百万石を超えた(西軍だったが、北陸では東軍と和睦した)。
  •  前田家は外様大名だが、徳川の娘を正室に迎え入れる※など将軍家と姻戚関係を結び、幕府内で徳川御三家に準じる待遇を受けた。
  • 前田家は、格式の高い家として知られ、幕府は前田家に対して重大な処分を下すことはなかった。
  • この結果、前田家は加賀百万石を築き、財政的に豊かな藩を維持することができた。

⇒※徳川家の養女を妻に迎えたのは、第2代藩主前田利常と第4代藩主前田光高

石川県立美術館で観た「国宝 無銘正宗」は、前田光高が徳川家光の養女・阿智姫(水戸徳川頼房の娘)を正室に迎えたときの引き出物だった。

100万石の富を幕府が懸念する軍事力では無く美術工芸の発展に充てて伝統工芸が栄え、幕府の信用を得た

 
加賀百万石の武家文化を支えた5万石という破格の加賀本多家全国の家臣の中でも最高禄
初代の本多政重は、徳川家康の重臣である本多正信(「どうする家康」では松山ケンイチが演じているらしい)の次男
本多家の家臣500人以上が、本多家上屋敷(現在の県立美術館や博物館)に出勤していた。
今も、この博物館がある公園は、本多の森公園となっている。

村雨の壺
本多家随一の家宝である。銀山のある新川郡(現富山県)の領有権が幕府か加賀藩か問題となった際、本多政重が幕府と交渉し、加賀藩のものとなった。功績をたたえ5万石を10万石に増やす話を辞退し、代わりに村雨の壺受領した。5万石の壺と言われる。

昔、富山県が加賀藩に属していた証拠の壺だね加賀・越中・能登の三国合せて119万2760石

本多家の鎧、兜の実物が迫力満点。写真撮影はOKだが、SNS投稿不可なので割愛。
 
上から、
大十文字槍 おおじゅうもんじやり 江戸時代初期
 本多政重の所用。
 
大身槍 おおみやり 室町時代末期
 本多政重が1600年の関ヶ原の戦い使用したと伝わる。柄を入れると3mにもなる。
  • 「どうする家康」に出てくる本多忠勝は、6mもある大身槍で数々の戦で功績を挙げ、家康から10万石の桑名藩主を与えられた。
  • 本多正信を「腰抜け」と言ったそうだ。確かに槍の長さは2倍ある。
  • 加賀本多家は、武将と言うより、徳川家と交渉して前田家を支えた知恵者だね。
薙刀なぎなた 室町時代


金沢市立安江金箔工芸館
前田利家が、七尾で金箔を、金沢で銀箔を打つよう命じた記録があり、16世紀には始まっていた。
幕府が金座・銀座を江戸に設置したため途絶えかけたが、幕末には製造権を得て、明治期に産業として成長。
現在、日本の金箔の生産量は、金沢が100%に近い。
 
金打ちは、金を、厚さ1万分の1ミリになるまで何回も打ち伸ばして製造する。
金と金の間に、特殊な手漉き和紙を挟み、重ねて打つが、和紙造りに犀川の水質が重要だった。
右上の棒状の金塊から左へ、更に手前側の右から左へと、打つ工程を経て、薄く仕上がっていく。

金箔の薄さを、髪の毛(左の丸棒)と比較したもの。
薄くなるまで、ハンマーで何度も叩く。

金箔は、蒔絵や沈金など漆工芸に不可欠な材料。地元に、材料供給体制があった。
 
漆の乾燥には、湿度と温度が必要
 「沖縄は、湿度と温度が高く、漆の乾燥と硬化に最適」と室瀬和美先生から教わった。
 「首里城は、巨大な漆器」と高良倉吉先生は言った。
金沢や輪島は「弁当忘れても、傘忘れるな」と雨が多く、海に面し湿度が高く、漆の乾燥や硬化に適した立地
 
こうした条件が整い、石川県の漆工芸を発展た。

石積みの堀と道路。道路の中央には、用水を生かした、雪解け用の配管がある。

兼六園の外周の用水路

兼六園から出てくる水。

【本多家屋敷跡】

【兼六園周辺文化の森】
国立工芸館、県立美術館、県立歴史博物館、加賀本多博物館、文化財保存修復工房、県立能楽堂、金澤神社がある。
【石川県政記念しいのき迎賓館】
1924年の歴史的建造物の旧庁舎を再整備した建物。
3年に一度の国際漆展(11/9-11/21)が開催されており、運良く観ることが出来た。
国内外から出展された漆芸品のうち、入選16点入賞作66点が展示されていた(入場無料)。

入賞作(上記HPから)
加賀藩から続く伝統工芸王国の神髄を観た気がした。

石川県立美術館と国立工芸館

2023-11-21 | 国内旅行

兼六園に隣接して、石川県立美術館国立工芸館があります。

国立工芸館とは、東京国立近代美術館工芸館が2020年に金沢市に移転したもの。

 

両館で開催中の「皇居三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室と石川 - 麗しき美の煌めき -」を観てきました。

皇居三の丸尚蔵館(東御苑)は、開館30年を期にリニューアルし11月に部分開館
先日行ったけど、まだ工事中だったので、収蔵品を巡回展示しているのかな。
 
内容は、三の丸尚蔵館収蔵品に、石川県立美術館、国立工芸館、(公財)前田育徳会等所蔵の作品を加えた約120点を、県立美術館と国立工芸館の二会場で展示
  • 皇室の至宝
  • 皇室に伝わった石川の美術、工芸 
加賀藩前田家からの献上品や石川出身の人間国宝の作品など。
 
【皇室と加賀前田家】
国宝 刀 無銘正宗(名物 太郎作正宗) 鎌倉~南北朝時代 前田育徳会所蔵
徳川家の家臣 水野太郎作正重が所有していたもの。
徳川将軍に献上され、徳川家の養女が加賀藩主に輿入れの際、引き出物として下賜された。


【皇室の至宝】
国宝 動植綵絵さいえ(部分) 伊藤若冲じゃくちゅう(1716-1800) 三の丸尚蔵館所蔵
当時の最高品質画絹や絵具を惜しみなく使用したため、200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ない。

当時の絵画は、屏風絵や絵巻など、物語を描く平面的な作品が多かった。
しかし、伊藤若冲は、動植物などの対象に焦点を当て、実物写生を基に独特感性で色彩を加え華麗な作品を数多く描いており、見応えがある。
西洋画と比べても、フランスのジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)より半世紀早く、こうした作品を生み出しており、感心する。
 
【皇室に伝わった石川の工芸】
鶏置物にわとりおきもの 1892年 由木尾雪雄ゆきおゆきお(1860-1929)三の丸尚蔵館所蔵
実物大の木製漆塗。作者は金沢生まれ、加賀藩お抱えの蒔絵師の父から蒔絵まきえを学ぶ。1900年のパリ万博で金牌受賞
 
蒔絵鷺文飾筥まきえさぎもんかざりばこ 1961年 松田権六ごんろく(1896-1986)  国立工芸館所蔵
宮内庁が制作委嘱。大きく羽を広げた鷺の白さが、黒漆の中で際立つ。
作者は金沢市生まれ、東京藝術大卒の人間国宝。「漆聖」と呼ばれた技術を持つ。輪島市漆芸研修所(現・県立)設立など後進の育成、漆芸文化継承に尽力人間国宝の室瀬和美(1950-)氏は、東京藝術大で松田権六氏に師事し、蒔絵をはじめ漆芸技法を習得。

国立工芸館の外観。
国立工芸館が金沢市に移転した理由は、地方創生と東京一極集中是正、政府関係機関の地方移転の中で、石川県が東京国立近代美術館工芸館の誘致し実現。石川県は「工芸王国」とも言われ、陶芸や漆芸、染織などの産地を抱え、国立工芸館の移転は地域の文化振興や観光振興に寄与すると。

施設は、旧陸軍の建物を移築・増築し、レトロクラシック。金沢出身の蒔絵師松田権六の仕事部屋が移築展示され、地元出身の工芸文化を引き立てている。

このあと、さらに石川の文化を探ることに。

兼六園の雪吊り作業

2023-11-19 | 国内旅行

運良く、兼六園名物の雪吊り作業をしているところでした。

【概要】

庭園のマツは、春先に芽(ミドリ)摘みをして、枝を横に伸ばし美しく仕立てるが、雪国では雪の重みで枝が折れるリスクがある。

雪国の名園を代表する兼六園で生まれた造園技術が、雪吊り

対象の樹木1本に、15人くらいの職人が集中して取組む。

11月から12月中旬にかけて行われる兼六園の雪吊りは、テレビで風物詩として紹介される。

 

【支柱】

樹木のそばに、支柱をまっすぐに立てる。ロープを支える大事な支柱だ。

支柱の先端に位置した職人が、ロープをたぐりあげ、合図で投げ下ろす

【ロープ】

全部で130本くらい使うかな。まだ、多くのロープが残っている。

【枝にロープを結ぶ職人】
ロープは、均等間隔で、途中の枝に引っかからないよう注意して、枝に固定する。
ロープを均等間隔に張ると傘を開いたようになる。強風時には、樹木全体で風を受け枝を守る。

途中の枝にロープが引っかかると、その枝にいる職人に捌いてもらう。
職人同士が、ひっきりなしに、声を掛け合っている。

【頂上の職人】
忙しい。体力と精神力と技術力が要求される役割だ。
足場は、どうなっているのだろうか。

時々、遠くを見ている。
腰を曲げたままの力作業の連続は、つらい。
腰を伸ばしているのだろうか。

【作業車】
軽トラ1台。ロープの束がある。
脚立やバリケードを積み込む。

【上の枝にいる職人】
上の枝に引っかかったロープを捌くのがしごと。
不安定な枝の上で、これも疲れる仕事だね。

【下の職人と上の職人】
下の職人が、上の職人に、ロープの位置を注文付けてる。
今、きちんとやらないと、後で修正できないからね。

【コウヤマキの例】
途中の枝に引っかからないよう、まっすぐ張られている。
途中の枝の固定と、一番下の枝の固定。

一番下の枝。ロープが固定されている。
【水の上はボートで】
マツの枝が水面上に張り出している箇所は、ボートの上で作業する。
 
【支柱の頂上】
ロープの中央部分を、柱の頂上で束ねて巻き付けてしっかり固定している。
手に持っているのは、取り外した足場。

下にいる仲間に向かって、足場を投げたところ。

【頂上から降りるところ】
足場を取り外し、安全ベルトも外したあと、ロープの隙間に潜り込み、支柱を伝って下に降りる。
兼六園のはっぴが、格好良いね。
左の職人が手にしている棒は、地上からロープを引っかけるもの
お疲れ様でした。

兼六園

2023-11-16 | 国内旅行

数十年ぶりの兼六園です。


外国人が多かったですが、庭園の素晴らしさに、日本人として誇りに思いました。

兼六とは、相反するので難しい六つの景勝を、兼ね備えているという意味です。
1)宏大、2)幽邃、3)人力、4)蒼古、5)水泉、6)眺望
 
広大だと、静かな奥深さは無い
人工的だと、古びた趣きは無い
池や滝があれば、眺望は無い
という「庭園作りの難しさ」を克服していると。
 
1) 広いです。丁寧に造られ、初めて見る植物もあり、じっくり見ると2時間はかかります。
 
 
2) 人が入らない空間が奥深さを感じます。


3) 隅々まで人手が入っています。

添え木や支柱が枝を支えています。

雪吊りを毎年、丁寧に施しています。
雪の重みで枝折れすることを防ぐ技術です。

人力で草むしりして、苔の美しさを保ちます。
 
4) 古き趣きを感じます。

苔が美しい。不規則な石も、外側が曲線を描くように形を合せて並べると美しい。

根上松(ねあがりまつ)何年かけて、この姿を。

竹の化石に見える手水鉢です。
 
5) 池や滝があります。

逆サイフォンの原理で、手前の木で覆うところから、隣の金沢城まで、Uの字で送水します。

池との高低差を利用して、噴水を作りました。日本最古の噴水だそうです。
 
6) 眺望も十分楽しめます。

遠くの山々と池が連なります。

高台にあることがわかります。