現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

父の「日章旗」

2014-08-11 08:29:57 | わが家のこと

父の遺品の中に、「祝 出征 牧原五郎君」の幟旗と、
「武運長久」と寄書きがされた日章旗が4枚 あります。

父は、昭和16年3月に慶応を卒業し、東京電灯(現
東京電力)に入社し、12月に出身地の福島県会津若松の
「歩兵65連隊」に入営します。

東京を発つ時に壮行会を開いてもらったのでしょう。
1枚は慶応の「福沢研究会」の面々。もう1枚は「東京
電灯・浅草営業所」の社員が、氏名を寄書きしています。
みな実に達筆なのに驚きます。

さて もう1枚には「海軍大将 鈴木貫太郎」と
「陸軍大将 柴五郎」の名が揮毫されています。

「鈴木貫太郎」は、海軍大将ですが、昭和20年4月、
東条英機の後、天皇の推挙によって内閣総理大臣となり、
戦争終結に尽力した人です。

「柴五郎」の名は会津人なら誰でも知っています。
薩長の軍閥の中で、会津人として初めて陸軍大将にまで
上り詰めた郷土の英雄です。著書の『ある明治人の記録』
で知る人も多い。

さて、私の父の出征に際して、「海軍大将」「陸軍大将」が
揮毫しているのは、どういうわけか。一兵卒の全員に
印刷して配られたものでは無いだろう。

いったい、どういう経路で、誰が、両大臣に揮毫を頼んだ
のだろう。そして、その日章旗を父は戦地には持って
行かなかった。

なぜ? どなたか、この謎を解いてください。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。


鈴木貫太郎と柴五郎の揮毫

2014-08-11 08:29:10 | わが家のこと

昨年書いた記事の再掲です。

中日新聞 昨年の10/8 と15日に掲載された「高田明和」氏の寄稿。

『競争社会で気を楽に生きる』「上」に「鈴木貫太郎」のことが書かれていた。


「鈴木貫太郎」は、戦時下最後の総理大臣として、太平洋
戦争の“幕引き”を行った人物。

日露戦争に駆逐艦に乗って 敵艦3隻を轟沈。後「連合艦隊
司令長官」「海軍軍令部長」などを歴任し、海軍から宮中に
転じ、侍従長に就任。「枢密院顧問官」も兼任した。
「二・二六事件」で襲撃され、胸と頭に銃弾をあびるが、
奇跡的に一命を取り留めた。

昭和20年の4月、沖縄も陥落し、敗戦濃くなって「戦争の
幕引き」を天皇から請われて、総理大臣になった。時に
76歳。

彼の「座右銘」は「求めぬ者は富む」。「求めないと
いうことは、敗者の論理ではなく、心の幸せの論理で
ある」と。「ポツダム宣言」の無条件受諾が、戦後の
復興につながったのか。


はてさて、私の父が、昭和16年 出征の時の「日の丸」の
旗に「海軍大将 鈴木貫太郎」と揮毫されているのだ。
「陸軍大将 柴五郎」の署名もある。

一兵士の出征に「陸軍大将と海軍大将」2人の揮毫。
いったいどういう経緯で、揮毫を得たのだろうか。

小説のネタにしたいと考えている。


柴五郎陸軍大将

2014-08-11 08:20:27 | 太平洋戦争

父の日章旗に揮毫されていた「柴五郎陸軍大将」とは。

岩波新書『ある明治人の記録』で知る人ぞ知る、会津
人で、初めて陸軍大将にまで出世した人だ。

柴五郎は 1860年の生まれ。明治元年の戊辰戦争当時は
8歳だった。戊辰戦後、下北半島で悲惨な生活を経験するが、
明治6年、陸軍幼年学校に、明治10年、陸軍士官学校に進み、
明治12年、陸軍砲兵少尉に任官される。同期には『坂の上の
雲』の秋山好古がいた。

明治32年清国に派遣され、そこで『義和団』事件が起きる。

私が子供の頃『北京の55日』という映画があった。チャールトン.
ヘストン主演の“総天然色”の映像を記憶している。この映画は
アメリカとイギリスが大活躍して義和団を撃退したことになって
いた。その時は気がつかなかったが、伊丹十三が扮する日本の
軍人が「柴五郎」だった。映画では、二言しかセリフが無いが、
実際は、柴五郎指揮下の日本軍の活躍で、義和団を撃退
したのだ。この義和団事件の働きで、柴は海外各国から賞賛と
勲章を贈られる。

その後日露戦争にも従軍するが、軍人としての出世は遅く、
1919年(大正8年)になってようやく陸軍大将に進級し、
1923年(大正12年)には「予備役」となる。

私の父が出征した昭和16年当時は、もう退役軍人だった。
そして、1945年(昭和20年)の敗戦後、9月15日に自決を図る。
即死せず、その傷がもとで12月に亡くなった。85歳だった。

退役軍人だった柴五郎は、出征して行く会津の若者全員に、
「祈 武運長久 陸軍大将 柴五郎」と揮毫した日章旗を贈って
いたのだろうか。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。


「酒井勝軍」の戦争賛美

2014-08-11 06:06:57 | わが家のこと

戦争の悲惨さ、愚かさ、虚しさを考えれば、誰でも
「反戦平和主義者」でしょう。

私自身は「九条を守る会」の会員ですが、戦争映画は
大好き。戦争という極限の中で発揮される友情、
人間の本性剥き出しの愛憎に真実を見ます。

「酒井勝軍」もまたそうでした。彼は アメリカに渡って
キリスト教の伝道師となるのですが、そこで見た
宣教師たちの堕落した姿に失望します。

また日露戦争に従軍して、「反戦平和」から「戦争賛美」に

転じます。「戦場の中に美しい人間の真実を見た」と

言うのです。


酒井勝軍は 諸外国の「観戦武官」の接待役を
任されるのですが、エリート将校と憧れをもって
迎えた外国の将校たちは、わがままで、傲慢無礼。

日本は貧しく、物資も食料補給も無い中、彼等には
最大限の食事やシャンパン、寝所を用意している
にもかかわらず、「パンの焼き方が悪い、牛肉が
硬い」と 不平不満をぶつけてくることに、失望と
怒りさえ覚えます。

そして、日本軍人の崇高な精神に感動し、戦場に
美を見出していきます。それまで「親米、反戦平和
主義者」だった酒井は、日露戦争の従軍によって、
日本人優位の「国粋主義」に転じていくのです。

キリスト教は本来、「神と人、専制君主と臣民、
親と子の間のありよう」を説くものであり、アメリカの
「自由、平等、共和主義」は、キリスト教から
逸脱した堕落であり「滅びるべき思想」と考える
ようになります。

天皇家の紋章は「菊花」ではなく「太陽神の象徴」
である。「天孫降臨」のわが日本の天皇は 世界を
征服する王であるという考えに傾倒していくのです。


戦地で木暮実千代に?

2014-08-11 06:04:02 | 太平洋戦争

父の『従軍記』には

「昭和18年2月11日、紀元節の佳日。経理学校を卒業して、
見習仕官となり、原隊(会津若松65連隊)に帰ることとなった。
早朝の新京駅に人影は殆ど無かったのに、真白い毛皮のオー
バーを着たすばらしい美人が一人、ホームのかげにポツンと
立っている。よく見れば木暮実千代ではないか。夢かと思う。

数日前、彼女が従軍看護婦となって戦地に赴き、ロマンスを
作りながら活躍する映画を観たばかりだったので、特に感傷が
大きかった。

再び戦場に赴くに当たって、彼女に出逢ったこの運命は、
果たして吉か凶か?」と書かれている。

はてさて、木暮実千代が、昭和18年の2月に新京に居たのか?

Wikipediaで見れば、父が見た映画は、昭和17年制作の『愛国
の花』のようだ。
そして、木暮実千代は「1944年、20歳年上の和田日出吉と結婚。
マスコミの仕事に従事する夫の仕事の関係で夫妻とも満州に渡り、
辛酸な生活を味わった。帰国した翌年の1947年松竹に復帰し、
女優業を再開した」とある。

1944年は昭和19年。その前年の2月に、なぜ一人で、早朝の
新京駅に佇んでいたのか。映画を観たばかりの父の妄想だった
のだろうか。