現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

鈴木貫太郎閣下

2014-08-12 08:48:39 | わが家のこと

「寺内貫太郎一家』ではない「鈴木貫太郎閣下」。

太平洋戦争の終結のために、昭和天皇の強いご下命で
総理大臣となった。その時78歳。

『坂の上の雲』にも登場していた。1867(慶応3)年の

生まれだから、27歳で日清戦争に従軍。日露戦争の時は

38歳で 第4駆逐隊司令として参加し、ロシアの戦艦を

3艦も撃沈。

1929(昭和4)年、62歳、予備役となり、同時に
侍従長に就任。昭和天皇の信任を得る。

1936(昭和11)年の2.26事件で襲撃され、
重傷を負う。その後、余生を送っていた貫太郎に
1945(昭和20)年4月5日、天皇より、組閣の
大命が下される。戦争終結の内命を帯びていたのだ。

だが、陸軍は本土決戦を叫び、海軍の強硬派もそれに
ならい閣内は本土決戦派と終戦派とのつばぜり合いで
真っ二つの様相を呈していた。

鈴木貫太郎は 首相就任挨拶で「私は死に花を咲かす覚悟。
諸君は 私の死屍を乗り越えて 一層奮起し、起って欲しい」と、
勇ましい発言をした。それは「終戦内閣」をかわす貫太郎の
腹芸であったか。

私の父は、昭和16年8月、福島県の会津若松連隊に
入隊したが、その時の「日の丸」に「海軍大将 鈴木
貫太郎」と「陸軍大将 柴五郎」二人の揮毫がある。

地方の一兵卒の入隊に、なぜ、海軍と陸軍の大将の
揮毫が得られたのか。謎である。「お宝鑑定団」に
でも出してみようか。


鈴木貫太郎記念館

2014-08-12 08:46:53 | わが家のこと

昨年の5/26  関宿の「鈴木貫太郎記念館」に行ってきました。
鈴木貫太郎」は、海軍大将で、終戦時の内閣総理大臣
です。
私の父の遺品の中に「海軍大将・鈴木貫太郎、陸軍大将・
柴五郎」の揮毫がある「日章旗」がありました。

父は、昭和16年8月に会津若松第65連隊に入隊したの
ですが、どのような経緯で「鈴木貫太郎」に揮毫いただいた
のかを調べていて、ネットで「鈴木貫太郎記念館」が
あることを知り、行ってみました。

中目黒から地下鉄日比谷線で北千住、そして東武線で
草加、越谷、春日部を経て「東武動物公園」まで
トコトコ1時間半。

昭和57年当時、春日部の手前の「千間台」に住み、
中目黒の千代田生命本社まで通っていましたので、
なつかしい思い出の線でした。当時は草加から北は
田んぼでしたが、30年の歳月が経ち、沿線は住宅で
埋め尽くされていました。30年前、毎朝 ものすごい
ラッシュで1時間半立ち通しでした。

さて、東武動物公園駅から バスで 20分「鈴木貫太郎
記念館」に到着。田んぼに囲まれた一画で、訪れる人も
まばらな所です。

大礼服や肖像画、終戦時の「玉音を録音したレコード」
なども展示されていました。昭和20年、21年の「日記」
はありましたが、昭和16年当時の日記はなく、受付の
方も「わからない」とのこと。

バスは1時間に1本しかないような所です。帰りは、
浅草に寄って、スカイツリーを見、さんざん歩いて、
“足を棒にして”夜9時 名古屋に帰着しました。