毎年4月に、名古屋で「春姫道中」というイベントが行われる。
今年は4月19日(日)。「春姫」は、紀州藩主「浅野幸長」の娘で、
尾張徳川家の初代藩主「義直」に嫁いできた。
慶長8年(1603年)和歌山城で誕生。元和元年(1615年)
12歳で輿入れ。子供が生まれないまま、寛永14年(1637年)に
35歳で亡くなり、大須の萬松寺に葬られた。
さて、「春姫」の父「浅野幸長」は、豊臣秀吉の室「大政所・寧寧(ねね)」の
甥にあたり、豊臣政権下で五奉行の筆頭にあったが、関が原では家康側に
つき、軍功あって紀州37万石に任ぜられた。
紀州に着任した時、秀吉によって破壊された紀州由良の興国寺を
再建している。
その時、「廃墟となっていた興国寺には たくさんの虚無僧が住み着いていて、
藩主「淺野幸長」の命令で追い払われた」という。
その虚無僧たちは、以前から興国寺と関係があったのか、それとも、
廃墟となった後に住み着いたのかが、問題。
江戸中期以降、京都明暗寺は、紀州「興国寺」と
本寺-末寺の関係を結びます。そして、興国寺の
開山「法燈国師覚心」が唐から「普化宗」を学んで
尺八とともに伝えたという伝説を創作します。
明暗寺が興国寺を本山に指名したのには、それなりの
伝承があったのか、全くの事実無根なのかが議論に
なるところです。
なお、浅野幸長は、春姫が尾張に嫁いだ3年後の
慶長18年(1613年)38歳で亡くなり、子供が無かった
ため、弟の長晟が家督を相続し、翌元和5年(1619年)
安芸国広島藩に転封となった。分家「赤穂藩の
浅野長矩」の祖でもある。
浅野幸長の後、紀州の殿様となるのが、家康の十男
徳川頼宣である。頼宣は、2歳で水戸20万石に封じられ、
慶長14(1609)年には駿河・遠江50万石に。更に、
元和5年(1619年)紀州に転封となり、ここに紀州
徳川家が誕生する。