現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

旧仏教と新興宗教

2015-04-19 21:09:45 | 虚無僧日記

中学の「日本史」で、「浄土宗・浄土真宗は『他力本願』。

禅宗は『自力本願』」などと習った。

「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、悪人でも浄土に行ける。

ならば、浄土真宗以外の宗派の人、キリスト教徒、無信心の人は、

善人でも浄土に行けないことになる。

禅宗では、「あの世なんてない。釈迦も達磨もない。

ただ自分だけを信じよ」とも説く。同じ仏教で、言ってることが

真逆では、何を信じていいのやら。これでは、仏教離れに

歯止めがかからないのも当然。


一方、新興宗教の方は、若い男女で満ち溢れている。

新興宗教を邪教、カルト集団と決め付けて、忌避する人も多い。

「新興宗教にお金を盗られて、だまされている」と批難する人も、

旧仏教に布施することには抵抗ないようだ。

浄土真宗にしても、当初は「念仏停止(ちょうじ)」の激しい弾圧を

受けた。禅宗も日蓮宗も、天台宗でさえ、当初は“異端、邪教”とされた。

今は“新興宗教”でも、やがては在来宗教に変わる教団となろう。

時代のニーズによって宗教も変わるのだ。変わってよい。

変わるべきだと私は思う。


今日、栄でのメイン通りで、キリスト教徒の大パレードがあった。
参加者の多くはフィリピンかブラジル系、韓国人だった。みな陽気に
はしゃぎ、賑やかな歌を歌いながら行進していた。その大胆な
示威行動には、正直驚いた。

日本の宗教界に、今これだけの力はない。信仰宗教も、もっと
自信を持って世にアッピールすべきだ。


人は何に金を遣うか

2015-04-19 20:03:10 | 虚無僧日記

生命保険の仕事をしていた時、よく「保険はカタチがないので

売るのは難しいて゜しょう」と言われた。なんのなんの、では、

「みなさんは、なんでクーラーを買うんですか、ヒーターを買うんですか?」。

それは、「夏は涼しく、冬は暖かく。つまり、快適という満足を得るために

お金を払って買うのです。

18畳の部屋に四畳半用の小型クーラーでは、ちっとも効き目がなく

不満になるでしょう。逆に四畳半の部屋に18畳用のクーラーでは

冷えすぎ、その上、電気代が かかり過ぎて、困るでしょう。

条件にあった最適のものに、相応のお金を払うのです。

保険も同じです。いざという時のリスクを補填するために入る。

「入っていれば安心」という満足感にお金を払うのです。

 

宝石はどうでしょう。 持っているだけで幸せ、満足という人は、

高くともお買う。 刀が好きな人も、はたから見れば、刀なんか

宝石より役に立ちませんが、持っているだけでと幸せという

満足を得るためにお金を払うのです。

 

さて、そこで宗教。神社への賽銭。お寺への布施。真剣に

ご利益や見返りを求めているわけではないでしょう。

虚無僧に布施するのも、「何か良いことをしてやった」という

満足を得るからです。

 


「虚無僧はやめなさい」??

2015-04-19 13:18:21 | 虚無僧日記

今朝もSさんにご馳走になりました。Sさんは、私が名古屋に来た

20年前からずっと私のファンの一人です。コンサートには必ず、

友達を誘い合わせ、聞きにきてくれます。ありがたい方なのですが、

私の母と同様、「虚無僧はイメージが悪いからやめなさい」と

説教してくれます。「尺八演奏家としてコンサートを開けば、もっと

いろいろな人が聞きにきてくれる」と言います。

なんでも「ハイ」で受ける私。反論はしませんが、尺八のコンサートで

食べていくのは大変なのです。

私の場合は「虚無僧の体験談を語りながら尺八を吹く」というキャラで

あちこちから講演の依頼があるのです。自分でコンサートを開くと、

チラシ、プログラムの作成、ゲストに払う謝礼、集客のための郵送代、

などなどに、時間と手間とお金がかかり、結局赤字です。

人の集まるところ、既存のグループから呼ばれて、何がしかの

交通費をいただく方が、気持ちも楽。そして たいてい ご馳走に

あずかれるから、食うに困らない。

 

世の中の尺八家の多くも、虚無僧で布施をいただくのは、卑しい、

人を騙す所業と、さげすんでいる。虚無僧の私に対しての風当たりは

尺八家からも強い。尺八ケースを提げた尺八家が、私を見ると

侮蔑の眼で見て、通り去って行く。そんな場面に何度か遭遇した。

なんでだろ。


遊女は媚を売り、坊主は経を売る

2015-04-19 12:52:26 | 虚無僧日記

「一休と地獄太夫」

堺の町でも名高い遊女「地獄太夫」。その美貌と色香に

殺されぬものはないと歌われた。その地獄太夫に一休が

会いにいった。

地獄太夫も、高名な一休和尚と知って、一首の歌を詠んだ。

 「山居せば、深山の奥に 住めよかし ここは浮世の 堺ちかきに」

一休はすかさず

 「一休が 身をば身ぼとに思はねば、市も山家も 同じ 住みかよ」

 

地獄太夫は「一休さんほどの高名な坊さんが、このような卑しい身分の

者のところにきてはいけません」と、暗に 諌めたのだが、一休は

なに「遊女は媚を売り、坊主は経を売る。職業に貴賎上下などあるものか」と。

そして、一休が

 「聞きしより 見て美しき 地獄かな」と 上の句を詠むと、

地獄太夫は

 「生きくる人の 落ちざらめやは」と返して、二人で笑ったとか。

 

ま、後世の人の創作話だが、よくできている。

虚無僧が門付けして金を得るのは卑しくて、コンサートを開いて

チケットを買ってもらうのは尊い生業(なりわい)なのか。

私はどちらも同じと思っている。

むしろ、コンサートで高いチケットを買って、聞きにいったら

「つまらなかった」では、詐欺に遭ったも同様ではないか。

虚無僧の吹く尺八の音に感動してくれた方が喜捨をする。

その方がよほど良心的所業と思いますがね。


先生と呼ばれるほどバカじゃない

2015-04-19 09:01:14 | 虚無僧日記

慶応では「先生」と呼ばれるのは「福沢諭吉先生」ただひとり。

他は、大学教授でも 福沢門下、塾生の一人だから「〇〇君」

「〇〇さん」と呼ぶのが慣わし。

 

先日、名古屋市議会の「富田ひでとし前市会議員」も、慶応卒なので

「先生と呼ばないでほしい」としきりに云われるので、みな「富田さん」と

呼ぶ。

私の師匠「堀井小二朗」の名も、「堀井小二朗は・・・」と呼び捨てに

していたら、ある方にとがめられた。「自分の師匠の名を呼び捨てに

するのか」と。それからは「堀井先生が」と「先生」をつけることにした。

 

あれ? 「堀井小二朗」師も慶応卒だから先輩。「先生」と呼んでは

いけないのだが・・・・・。 一般の方には通じるまい。

 

その私、最近、どこへ行っても「先生、先生」と呼ばれる。

喫茶店でもレストランでも、韓国に行っても「先生」と呼ばれた。

なんでだろ。こそばゆい。そんな顔になってきたか。

「先生と呼ばれるほどバカじゃなし」なんてセリフもありましたっけ。

 


薪村では みな 呼び捨て

2015-04-19 04:45:47 | 虚無僧日記

「酬恩庵一休寺」がある京田辺市の「薪(たきぎ)村」では、お互い

呼び捨てだそうだ。「次郎兵衛!」「茂兵衛!」「お加代」と、「さん」を

つけない。薪村では「さん」をつけるのは「一休さん」だけとか。

数ある名僧、高僧の中で「〇〇さん」と「さん」づけされるのは、

「一休さん」と「良寛さん」ぐらい。

 

これとは逆に、会話の中で、有名人の名は呼び捨てに

されている。「小泉が」「阿部が」と、一国の総理大臣でも

呼び捨てだ。芸能人もしかり。「吉永小百合」とか「三船敏郎」

とか。でも「高倉健」は「健さん」と「。人柄か。

尺八界でも「青木鈴慕」「山本邦山」と、呼び捨て。

でも「藤原道山」は、「道山さん」と「さん」づけされる

ことが多い。やはりこれも人柄か。