ドラマ「ドアー・ツー・ドアー」は、心を閉ざしている
人に、その扉を開けさせる話だった。障害があって
言葉も不明瞭な青年が、浄水器の訪問販売など、
絶対できっこない。誰もがそう思う。しかし、彼は
トップセールスになった。
尺八をやっていても思う。3尺以上の超長管は「絶対
無理」と、はなからあきらめていた。児玉竹坐氏から、
「やっているうちに指も伸びてきて届くようになりますよ」
と言われても「まさか」であった。ところが、一年経って
3尺2寸管が鳴るようになってきた。
鼻から吸って同時に口から吐く「循環呼吸」も、ようやく
メドがたってきた。
詩吟で最高音がF(ファ)までしか出なかったが、2年間の
ボイストレーニングで、A(ラ)まで出るようになった。
「絶対ダメ」と思っていたのに、「絶対」はないと知る。
その心のしばりを取れば、限界は超えられるのだ。
尺八初心者も、「尺八は難しい」と自分に納得させて、
「無理、絶対無理、できない」と自ら心を閉ざしている。
その心の壁を取っ払えば、不可能も可能になるのだ。
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日本の仏教界には、さまざまな対立がある。
まず奈良仏教と平安仏教の対立。その平安仏教も、
最澄の比叡山天台宗と、弘法大師空海の高野山
真言宗の対立。
そして平安末期、法然によって浄土宗が、さらに
親鸞によって浄土真宗が開かれ、「南無阿弥陀仏」
と唱えるだけで、悪人も救われるという他力本願の
念仏宗が起こる。
その一方で、自力本願を説く禅宗が武家の間で広
まるが、禅宗も、曹洞宗と臨在宗の二つに。
さらに平行して、日蓮による日蓮宗が起こり、禅宗や
念仏宗を激しく誹謗排斥する。
五木寛之の『親鸞』は、平安末期の比叡山の堕落
ぶりと、そこから 「仏教とは何か」 を真剣に問い求
める親鸞の姿を描く。
水上勉の『虚竹の笛』も然り。室町期の五山に代表
される禅門の腐敗堕落から脱した異形の僧たちを
描く。それが虚竹と一休、そして一路だ。
水上勉の『虚竹の笛』は、「竹の中にこそ真の仏教
がある」と代弁してくれているようで心強い。すべて
の仏教を超越したものが「虚無僧」なのだ。そこには、
仏も釈迦も経典も無い。あるのは人々の心の中に
宿る仏性を呼び覚ます竹の響きのみ。
「服装は礼をもって飾り、言葉は詩によって飾る」
言葉も服装も乱れが激しい昨今である。
SMAPのコンサートを毎年観ているが、数年前までは
観客もそれなりの服装でビシッと決めていた。今年は、
どうもだらしない服装が多い。「どうせ客席は暗いのだから、
服装なんかどうでもいい」というのだろう。ファンとしての
気合が入っていない。これは最近すべてに云える傾向だ。
「ヨーロッパ人は、アメリカ人と日本人が嫌い」という
コラムがあった。オペラやオーケストラのコンサート会場に
行くのに、ヨーロッパ人はタキシードやドレスに正装して
行くが、アメリカ人と日本人は平気でジーパンや短パンを
履いてくる。その傍若無人さが、ヨーロッパの文化を土足で
踏みにじられる思いがするというのだ。
先日の名古屋能楽堂での「能の公演」では、観客席に
和服のご婦人も多かった。カジュアルな恰好の人は一人も
いなかった。さすが名古屋である。能楽堂というシチュ
エーションがそうさせるのだ。聴く側の姿勢で、演奏者の
“気”も高められると思うのは私だけか。
「派遣切りで職を失った人に福祉事業、農業、林業への
雇用拡大」。「地元の企業にUターン就職者増加」。
まさに苦難福門。雇用崩壊で地方の労働力不足、敬遠
されていた農業、林業への人材確保ができ、いいことだ。
光が見えてきたかな?仕事は探せばある。それを「新しい
ことを覚えるのはイヤだ」とか「責任ある仕事はイヤ」
「人と接する仕事はイヤ」などと、自分で閉ざしていては
道が開けない。なんでも新しいことにチャレンジ!いや
チェンジか。
宮地ゆきおも「泥棒と殺人以外、どんな仕事でもやって
きた。それがパーソナリティとしての肥やしになった」と。
織田信長の言葉「仕事は自分で探して創りだすもの、
与えられた仕事しかしないのは雑兵」が、名言の1位に
選ばれたというのも、うなづける。雑兵に甘んじるか、
将となるか。新たな勝ち組が生まれるチャンスだ。