現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

心の壁

2015-06-12 23:41:32 | 心の問題

ドラマ「ドアー・ツー・ドアー」は、心を閉ざしている
人に、その扉を開けさせる話だった。障害があって
言葉も不明瞭な青年が、浄水器の訪問販売など、
絶対できっこない。誰もがそう思う。しかし、彼は
トップセールスになった。

尺八をやっていても思う。3尺以上の超長管は「絶対
無理」と、はなからあきらめていた。児玉竹坐氏から、
「やっているうちに指も伸びてきて届くようになりますよ」
と言われても「まさか」であった。ところが、一年経って
3尺2寸管が鳴るようになってきた。

鼻から吸って同時に口から吐く「循環呼吸」も、ようやく
メドがたってきた。

詩吟で最高音がF(ファ)までしか出なかったが、2年間の
ボイストレーニングで、A(ラ)まで出るようになった。
「絶対ダメ」と思っていたのに、「絶対」はないと知る。
その心のしばりを取れば、限界は超えられるのだ。

尺八初心者も、「尺八は難しい」と自分に納得させて、
「無理、絶対無理、できない」と自ら心を閉ざしている。
その心の壁を取っ払えば、不可能も可能になるのだ。

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真の仏教徒とは?

2015-06-12 23:40:01 | 心の問題

日本の仏教界には、さまざまな対立がある。
まず奈良仏教と平安仏教の対立。その平安仏教も、
最澄の比叡山天台宗と、弘法大師空海の高野山
真言宗の対立。
そして平安末期、法然によって浄土宗が、さらに
親鸞によって浄土真宗が開かれ、「南無阿弥陀仏」
と唱えるだけで、悪人も救われるという他力本願の
念仏宗が起こる。
その一方で、自力本願を説く禅宗が武家の間で広
まるが、禅宗も、曹洞宗と臨在宗の二つに。

さらに平行して、日蓮による日蓮宗が起こり、禅宗や
念仏宗を激しく誹謗排斥する。

五木寛之の『親鸞』は、平安末期の比叡山の堕落
ぶりと、そこから 「仏教とは何か」 を真剣に問い求
める親鸞の姿を描く。

水上勉の『虚竹の笛』も然り。室町期の五山に代表
される禅門の腐敗堕落から脱した異形の僧たちを
描く。それが虚竹と一休、そして一路だ。
水上勉の『虚竹の笛』は、「竹の中にこそ真の仏教
がある」と代弁してくれているようで心強い。すべて
の仏教を超越したものが「虚無僧」なのだ。そこには、
仏も釈迦も経典も無い。あるのは人々の心の中に
宿る仏性を呼び覚ます竹の響きのみ。




礼は服にあり

2015-06-12 23:37:42 | 社会問題

「服装は礼をもって飾り、言葉は詩によって飾る」
言葉も服装も乱れが激しい昨今である。

SMAPのコンサートを毎年観ているが、数年前までは
観客もそれなりの服装でビシッと決めていた。今年は、
どうもだらしない服装が多い。「どうせ客席は暗いのだから、
服装なんかどうでもいい」というのだろう。ファンとしての
気合が入っていない。これは最近すべてに云える傾向だ。

「ヨーロッパ人は、アメリカ人と日本人が嫌い」という
コラムがあった。オペラやオーケストラのコンサート会場に
行くのに、ヨーロッパ人はタキシードやドレスに正装して
行くが、アメリカ人と日本人は平気でジーパンや短パンを
履いてくる。その傍若無人さが、ヨーロッパの文化を土足で
踏みにじられる思いがするというのだ。

先日の名古屋能楽堂での「能の公演」では、観客席に
和服のご婦人も多かった。カジュアルな恰好の人は一人も
いなかった。さすが名古屋である。能楽堂というシチュ
エーションがそうさせるのだ。聴く側の姿勢で、演奏者の
“気”も高められると思うのは私だけか。


雇用崩壊から拡大へ

2015-06-12 23:34:10 | 社会問題

「派遣切りで職を失った人に福祉事業、農業、林業への
雇用拡大」。「地元の企業にUターン就職者増加」。

まさに苦難福門。雇用崩壊で地方の労働力不足、敬遠
されていた農業、林業への人材確保ができ、いいことだ。
光が見えてきたかな?仕事は探せばある。それを「新しい
ことを覚えるのはイヤだ」とか「責任ある仕事はイヤ」
「人と接する仕事はイヤ」などと、自分で閉ざしていては
道が開けない。なんでも新しいことにチャレンジ!いや
チェンジか。

宮地ゆきおも「泥棒と殺人以外、どんな仕事でもやって
きた。それがパーソナリティとしての肥やしになった」と。
織田信長の言葉「仕事は自分で探して創りだすもの、
与えられた仕事しかしないのは雑兵」が、名言の1位に
選ばれたというのも、うなづける。雑兵に甘んじるか、
将となるか。新たな勝ち組が生まれるチャンスだ。