「虚無僧」と書くのは、江戸時代1600年代に入ってから。
それ以前は「虚妄僧、薦僧」。さらに「薦」は、「暮露、
ぼろ、ぼろぼろ、ぼろんじ、梵論字、梵字」と同じと
されていました。
鎌倉幕府の最末期1330年頃に書かれた吉田兼好の『徒然草』に
「ぼろぼろと言う者 昔は無かった。最近ぼろんじ、梵字、
漢字など云ひける者 その始めなりけるとや」とあり、この
「ぼろ」こそ「虚無僧」の前身と言われていました。
しかし「薦」は尺八を吹くが、「ぼろ」は尺八は吹かない。
「ぼろ」というので「ボロボロの着物を着ているから」と
いうのが一般的 見解でしたが、最近、異説が出てきました。
「ぼろ」は、紙で作った「紙衣(かみぎぬ)」を羽織って
いました。「紙で作った衣だから、すぐボロボロになる
安物=貧乏人の着物」と思われますが、どうしてどうして
現代でも「紙子」は しっかりしていて結構いい値段が
します。
ですから「紙衣」は「暮露」の定番衣装であって、決して
ボロボロの衣では無かったのではないかと思えるのです。
「暮露」の出で立ちは、「紙子」の着物に「黒の袴」と
「大きな日傘」でした。
一方「薦僧(こもそう)」も、「紙衣」ですが、露宿するための
「薦むしろ」と「面桶(めんつう)」という弁当箱を腰に下げ、
尺八を吹いていました。
ですから「暮露」と「薦僧」は別物なのです。
『徒然草』に「ボロ」に「梵論」という漢字を当てて「梵論梵論、
梵論字」と書かれていますので、「これはインドのバラモンか。
暮露はインドや支那からの渡来人」などという説まで出てきました。
さて、最新の説は「ボロとは『一字金輪の呪=のうまくさんまんだ
ぼたなんぼろん』に由来するのでは?」というものです。
「暮露」は 長い柄のついた大きな傘を持ち、傘の柄を叩いて
「のうまくさんまんだ ぼたなんぼろん」と唱えていたので、
「ぼたなんぼろん、ぼたなんぼろん」から「ぼろんぼろん」
「ぼろんじ」などと呼ばれるようになったという説。
私はこの説を信じます。ちなみに、「漢字」とも書くというのは
「(社寺)の勧進」の「かんじん」の当て字ではないかという
解説もありました。
祖師の名の普化というより尺八の節を継ぐ今の虚無僧 みとく 古今夷曲集 1666 寛文6
尺八の自慢で 乞食もどきなり 伴自 俳諧神子の臍 1710 宝永7
伯母を見舞いに尺八でゆく 帆かけ舟 1713 正徳3
どこやら 女梵論の寝姿 岡村石鯨 1784 天明4
一月寺 仏に遠き人ばかり 谷素外 1784 天明4
かかる時 恋慕流しを吹けせんし 女ともなる雪に見とれて 千潟 職人尽狂歌合 1807文化4
むかひ路の高根の雪に こも僧の おのが軒端に 手を吹いて見る 有文 職人尽狂歌合 1807文化4
祖師の教え 精出して ふけせんし 板入 1813 文化10
梵論シは さて若衆か 女かな 皐月律佐 1819 文政2