現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

猿の臂(ひじ)の骨で尺八を作った?

2016-12-26 20:19:55 | 尺八・一節切

室町時代の1515年に書かれた『體源鈔』に次のような
記述がある。

「或書に云(いわ)く」 というので、出典は不明。

「尺八は、昔、唐の時代、西国に有りける猿の鳴ける
音の目出かりけるを写すなりける。その猿の鳴く声
奇妙なり。
聞く人みな涙を流すのみならず、道心の志を抱きて、
太子は宮を去り、諸卿は官職を捨てて山に籠もり、
道人商客に至るまで皆無常の理を催すこと数百人なり。
時の帝王かくの如きありては叶うべからざるとて、
武士に仰せ付けられて猿を殺さる。
哀れ深きこと限りなし。埋め置きたる所へ至りて、嘆き
悲しむ者 数十人なり。その中に、深く悲しむ人有りて、
年月を経て後、悲しみに堪えず、土を掘り起こして
一の臂(ひじ)を得たり。中 空(うつ)ろなりけるか、
風に当てて聞くに、この猿の鳴くに似たり。

知音の人有りて、その大きさなる竹を切りて、これを
吹くが、似ず。竹に穴を空けて吹くに、ようよう似たり。
すなわち、この臂(ひじ)1尺8寸なり。よって上下を
略して尺八と号するなり。

「猿の臂(ひじ)の骨の長さが1尺8寸だったので“尺八”と
名づけられた」というのはともかく、「尺八には道心を起こ
させる力がある」のは確かだ。

猿のことを「猿猴(えんこう)」というが、中国では
「猿」と「猴」は区別されていた。「猿」はテナガザル
(長臂猿)のこと。日本猿は「猴」の仲間に入る。

長江の重慶を過ぎたあたり、中国湖北省巴東県地方の
巴峡には猿が多くいた。その猿の鳴き声は哀愁を帯び、
「巴猿」として、漢詩でもよく知られているそうな。


『教訓抄』に「尺八」のことが

2016-12-26 13:17:24 | 尺八・一節切

 『教訓抄(きょうきんしょう)』は、鎌倉時代の1233年、興福寺の雅楽家

狛近真によって撰述された楽書。尺八について

 短笛ハ尺八ト云フ、今ハ 目闇法師 猿楽 之レヲ吹く、

 或書ニ云フ、尺八ハ、昔  西國ニ有ケル猿ノ鳴キ音目出タカリケル、

 臂ノ骨一尺八寸ヲ取リテ造リテ、始メテ吹キタリケル、

 仍(よって) 尺八と名ヅク也(なり)

 

「猿の肘の骨1尺8寸を取って作ったので尺八と名づく」とある。

この時代の1尺8寸は、現在の基準の8掛けで、1尺4寸ほど。

それが「短笛」というからには、より長い尺八があったのだろうか。

 

「目闇法師(めやみほうし)」というのは、盲目の琵琶法師。

また「猿楽」の徒がこれを吹くという。時代がくだって、

室町時代の「七十一番職人歌合絵巻」(1400年)には

琵琶法師の絵に、短い尺八が描かれている。

これは、1尺1寸ほどで、節が一つの「一節切(ひとよぎり)」。

また 申楽から発展した能の「増阿弥」は「一節切」の

名手でもあった。

 


「あいうえお」50音図の不思議

2016-12-26 09:36:10 | 虚無僧日記

「あいうえお」五十音の配列は、室町時代頃に定められたというが

誰が決めたのだろう。母音は「アイウエオ」の5文字にすっきり

まとめられた。笑いの要素は、すべて「はひふへほ」に集約。

ハハハ、ヒヒヒ、フフフ、へへへ、ホホホ。

そして「ぱぴぷぺぽ」で始まる言葉は「日本語にはない」のも

不思議。韓国とアイヌ語にはある。「ピョンヤン」「ピリカ」。

ついでに「がぎぐげご」は、悪い言葉が多い。

「我、臥、蛾、牙、餓。 疑、擬、偽、欺、戯、欺、擬。 

愚。 下、外。 誤、期」。

良い意味の「がぎぐげご」は

「賀、雅。 義、宜、技。 具、俱。 偈。 御、護、互」

 

 ところで、「母音」と「子音」はあるが、「父音」はないのだろうか。

いくつか説があるようだが、私は「ん」こそ「父音」にふさわしいと思う。

口を閉じても発せられる音が「ん」。そこから口を少しずつあけて、50音が出る。

「阿吽(あうん)」の呼吸とは、エクスタシーで女性が発するこえが「ア」。

男は「ウン」だからとか。

また、赤子が生まれた時の第一声が「ア」。死ぬ時の最後の声が「ウン」。

人生は「ア」に始まり「ン」で終わるのだとか。

 


『十訓抄』って面白い

2016-12-26 09:34:39 | 心の問題

鎌倉中期に書かれた『十訓抄(じっきんしょう)』の内容は、
今日 読んでも通用する。人の世は変わらぬものでござる。

1.人に恵を施すべき事
2.傲慢を離るべき事
3.人倫を侮らざる事
4.人の上を誡むべき事
5.朋友を選ぶべき事
6.忠直を存ずべき事
7.思慮を専らにすべき事
8.諸事を堪忍すべき事
9.懇望を停むべき事
10.才芸を庶幾すべき事


第九条の「懇望を停むべき事」は こんな内容です。
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ある人はこう言っている。
心安く頼みにしている人であれ、 互いに親しき人であれ、
怨んだり 妬んだりする心を先立ててはいけない。

たとえものの道理に行き違いがあったとしても、また約束に
反することがあったとしても、 しかるべき理由があるのだろうと、
気長に我慢していれば、腹を立てて怒るよりも、 かえって
立派に思われるし、気の毒にも思われるものである。

しかし、我慢して過ごすことは難しく、よく考えもせず
激しい勢いで振舞えば、 逆に周囲をしらけさせ、後々
些細なことで大変後悔させられるようなこともあるのである。

老子は、こう述べている。
「命(めい)を知れる者は天を怨みず、己を知る者は人を怨みず」
 自己をわきまえ知っている者は、人を怨まず」

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そうそう、本当に、この言葉の通りでござる。