現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

普済寺の看守「九皐 (きゅうこう)」

2016-12-19 17:22:41 | 虚無僧日記

『菰野町史』【切畑村文書(三重県三重郡菰野町切畑)】の中に
「留場(とめば)証文」があり、「鈴法山 普済寺 看守 九皐
(きゅうこう)」の名が見える。

「普済寺」は 三重県鈴鹿市白子に在った虚無僧寺。

「虚無僧寺」は、檀家も墓も無いので、葬儀や法事による収入が無い。

そこで 虚無僧は 門付(かどづけ=托鉢)で一日の糧を得るのだが、
村々に押しかけては、布施を強要するので 迷惑がられた。布施を
断ると、大勢で押しかけて、布施を得るまで、ブーブーと下手な
尺八を吹いた。それを「藪(やぶ)枯らし」と言うそうな。

それで 各村では、「あらかじめ 一定の金や米を納めるので
虚無僧は来ないようにしてほしい」という契約を 虚無僧寺と
結ぶようになった。それが「留場(とめば)証文」。「留場」は
「これより先 虚無僧は“足留め”」の意味。「ヤクザ」の
「しま」や「縄張り」のようなもの。「場先(ばさき)」とも言った。
「留場」であることを示す札が、村の入り口に立てられたようだ。


「切畑村」は「留場料」として銀2匁2分,打廻料に銭100文。
証文切替料と筆墨紙料に 金二朱を普済寺に納めたようである。

こうした留場を何カ所か持つことによって、虚無僧は生活を
保証されるようになり、ますます門付けなどせず、「飲む、
打つ、買う」の無頼人に堕落していく。

それで 明治政府は「普化宗」を廃宗とし、尺八を吹いて門付けする
ことも禁じたのだった。戦前まで、虚無僧の格好で門付けする
ことは、法律で禁止されていたのである。実際「虚無僧最後の人」
と云われた「谷 狂竹」は二度 警察に逮捕され、罰金刑に処せられ
ている。

それが解禁となったのは戦後のこと。虚無僧は今こそ大手を
振って、いや尺八吹いて 歩けるのだ。

ところで、普済寺の看守の名前が「九皐(きゅうこう)」とは面白い。
「九皐」とは「奥深い沢」。【詩経】に「鶴 九皐に鳴き、声 天に
聞こゆ」とある。「鶴は深い谷底で鳴いても、その鳴き声は天に届く」
の意で、「賢人は身を隠しても、その名声は広く世間に知れ渡る」と
いうことだそうだ。

虚無僧本曲の秘曲が『鶴の巣篭もり』。尺八で「鶴の鳴声」を模す。
それにも掛けた名であろうか。

私も「今は 潜んでいても、名声は世間に知れ渡りたい」との欲を
捨てきれずにおる。