福沢諭吉の著作に「やせ我慢の説」というのがあります。
まず冒頭で「立国は私(情)なり、公に非ず」という切り口上に
驚かされます。
言われてみれば なるほど、「清盛も頼朝も信長も、秀吉、
家康も、自分の私情、私利私欲で、天下をとり、政治も
経済も欲しいままにしたのです。「八重の桜」を見ていても、
結局「明治維新は 岩倉具視や西郷の私情で作られたもの」
だったではないですか。
「さすがは福沢諭吉」と感心していると「現実には、小さな国に
別れて競争しあい、そこに忠君愛国の『私情』が芽生え、それで
社会が成り立ってきた。そこには『やせ我慢』という日本人の
崇高な美徳があった。小藩が大藩と伍して国を守り得たのも、
朝廷が政治を幕府に委ね、均衡と平和を保ってきたのもみな
「やせ我慢」の精神があったからだと。
そして、勝海舟氏が平和裡に江戸幕府を解散したことの功績は
稀有で偉大なことだったが、違う観点から見るならば、敵と
味方と対立しているのに 戦うこともせず、早々と降参したのは、
子孫にとって「やせ我慢」の偉大な精神や気概が失われる
心配がある。
将来、外国が攻めてきたら、勝てそうにないからと、さっさと
降服して、植民地にされてもいいのか。
勝海舟のために言うならば、彼は日本の将来のために、
「国家を成り立たせる重要なものとして瘠我慢の精神という
ことがある。外国の侵略を受けたら、戦争も恐れるべきではない。
決して、明治維新の時の私の立ち居振る舞いを真似てはいけない」
というくらいの反省の心をもって、新政府の厚遇を辞退し、
官職や爵位を捨てて、単身世の中を去って身を隠すようで
あったならば、世の中の人も、彼に『誠心』があったことを
知って、その清らかな節操に心服し、かつての幕府の解散の
処置も、本当に勝海舟氏の功績となるだろう。
というのが福沢諭吉の「やせ我慢の説」の結論でした。
これに対して「勝海舟」は「批評は人の自由、出処進退は
私の勝手でしょ」と。
目黒区の洗足池の端に勝海舟夫妻の墓があります。子供の頃
何度か遊びにいったものです。勝には妾が5人もおり、正妻と
複数の妾を同居させて平然としていました。正妻の「民子」は
「夫と同じ墓には入りたくない」と遺言し、当初は青山墓地に
葬られたのでずか、後に海舟の傍らに移されたとか。
対する「福沢諭吉」は妻の「錦」さんと夫婦仲睦まじく、
他に浮いた話しは一切なく、夫婦ともに一つのお墓に眠って
います。
「八重の桜」で「勝海舟」が「西郷吉之助」と談判して
「江戸城無血開城」が 叶ったかのように描いていた。
しかし、江戸の無血開城は、勝以前に「山岡鉄舟」が
駿府(静岡)まで行って西郷と談判しており、さらに
皇女「和の宮」や島津家から輿入れした「天璋院
篤姫」も嘆願書を出していた。また「八重の桜」でも
きちんと描かれていたが「山本覚馬」の進言も
西郷に影響を与えていたのだった。
しかし、それを「勝海舟」は、「自分一人の功績である」と、
明治政府に売り込んで、新政府に出仕したことにより、
勝に対する評価は下げられた。
福沢諭吉は、中津藩士から「幕臣」になっており、明治に
なって新政府から再三の要請があったにかかわらず、
「武士は二君に仕えず」と、官吏になることを拒否した。
福沢諭吉は「やせ我慢の説」で、「勝海舟」は、「江戸を
無血開城」させた功績は認めるが、明治になって新政府に
仕えたことで、「やせ我慢」の日本的精神が損なわれる
こととなり、日本の将来のために よろしくない」と
説いたのである。
「日本史」に興味を持ち 深く探っていると、ひょんな
ところでつながるから面白い。今回も新発見。
「福沢諭吉⇒ 音吉=モリソン号=高野長英←虚無僧」と
つながった。
「モリソン号事件」とは?
1837年(天保8年)、モリソン号が突如浦賀沖に来航した。
ペリーより13年も前に外国船が浦賀に来ていたのだ。
しかしその時は、浦賀奉行が「異国船打払令」に基づき
砲撃を行って 撃退してしまった。
ペリーの艦隊とは違って、モリソン号は「商船」で非武装
だった。(海賊に襲われる危険があるから、大砲ぐらいは
積んでいたと思うがのぉ?)そして、日本人漂流民の
「岩吉、久吉、音吉、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の7名を
日本に送り届けてきたのだった。それを口実に、日本との
貿易、ならびに宣教師の日本布教の端緒を開こうというのが
目的だった。
何年もかかって、ようやく日本に帰ってきた「音吉」たち
にとって、砲撃を受け、上陸さえも拒否されるとは、
なんとむごいことだったろう。
幕府はこの事件も 民には知らせないはずだったが、「音吉」
たち漂流民を送り届けてきたという話は、オランダを通じて
1年後に判り、その噂は、じょじょに広がっていった。
蘭学者 渡辺崋山は『慎機論』を著し、高野長英は
『戊戌夢物語』を著して、幕府の対外政策を批判した。
隠していたことがバレ、「ご政道」を批判された幕府は、
面子にこだわり、崋山や長英らを逮捕、投獄してしまう。
(蛮社の獄)。しかしさすが処刑まではしなかったが、
長英は、放火騒ぎを起こして、牢破りをし、顔を薬品で
焼いて人相まで変え、潜伏したのだった。
虚無僧になれば顔を隠せたのに。士分ではなく、町医者
だったために拒否されたとか。ホントは、遠島破りや
無宿人もいたのだから、高野長英の話は「虚無僧」を
権威づけるための後世の作り話かと私は考えている。