現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「福沢桃介邸」はその後

2019-04-04 20:45:18 | 虚無僧日記

山手線恵比寿駅の東に小高い山がありました。
「福沢山」と呼ばれていたそうですが、そうとは知らず
私は その下を通って三田まで通っていました。

そこが、福沢諭吉の長女「お房」さんと「福沢桃介」の
邸宅だったと知ったのは、慶応を卒業して千代田生命に
入社した時です。そこは「千代田生命」の研修センターに
なっていて、入社して一年は教習生として、ここで
暮らしました。

そして、入社4年目に不動産部に配属された時、
土地購入時の一件資料を見つけたのです。
業務上知りえた秘密は公開できませんか?千代田生命も
無くなってしまったから、まいいでしょう。

ここは、お房さんと桃介の邸宅でしたが、400坪ある
敷地には、劇場や書生たちの住まいもありました。

桃介邸は、二棟あり、その間は渡り廊下でつながれて
いました。桃介はほとんど名古屋~岐阜、長野で仕事を
していましたから、めったに東京に帰ることは無かった
のですが、帰京してもお房さんは顔を会わせなかった
ようです。

さて、桃介は巨万の富を築いたのですが、昭和13年に
亡くなり、戦争戦後を経て、株も紙切れとなり、貨幣
切り替えで、何万円もの遺産も100分の1になって
しまいました。

桃介とお房さんの子の「駒吉」は、精神を病んでいて、
看護婦の「八重」さんが付き添っていましたが、
駒吉は、八重さんを妊娠させてしまいます。というわけで、
事実婚です。

そして戦後、駒吉夫婦?は、生活の困窮から、敷地を
千代田生命に売却します。 敷地400坪をたしか1万5千円
だったと記憶しています。(安い!)千代田生命の
創業者は慶応の塾頭を務めた門野幾之進でしたから、
福沢桃介の遺児を救おうという気持ちもあったようです。

その1万5千円も、戦後の超インフレで、あっというまに
価値がなくなり、他の遺族から「売買契約は無効」との
訴訟を起こされますが、千代田の勝訴に終わります。

さて、駒吉さんはその後 どうされましたかな。


福沢桃介と お房さんと マダム貞奴

2019-04-04 20:44:17 | 虚無僧日記

「福沢桃介」は、諭吉の次女「房」さんの夫です。

旧姓は「岩崎」。現在の埼玉県吉見町の貧しい農家の次男でしたが、
「神童」と言われるほど、頭が良く、旧知の人の世話で慶應義塾に
進学した。慶應の運動会で桃介の眉目秀麗ぶりが福澤諭吉の妻・錦の
目にとまり、次女の「房」引き合わされる。

1887年 福沢諭吉の援助でアメリカに留学、2年後に帰国して、
房と結婚し福沢姓に変わった。
福沢諭吉には、男子が4人もおり、養子をもらう必要も無かった。
しかし、諭吉は人一倍の子煩悩で、娘可愛さのあまり、「結婚したら
夫の姓を名乗らなければいけないというものではなかろう」と、
岩崎桃介を「福沢」姓に改姓させた。だから養子ではない。

桃助は、肺結核にかかったが、その療養の間、株を研究し、株で
大もうけをした。当時の金額で10万円(現在の20億円前後)という。

そして、株で得た金を元手に実業界に進出する。木曽川水系に
ダムを築き、水力発電所を設置して、電気を関西方面に売った。
名古屋でも電気の需要を起こすため、日清紡績や大同特殊鋼など
いくつもの会社を起こし、鉄道を敷いた。現在の中部電力や
大同グループ、名鉄グループの創業者であり、名古屋発展の
功労者であるが、なぜか、あまり知られていない。

な~ぜか?。それはどうも「諭吉」の娘「房」さんとの不和にあると
私は思っている。「桃介」には学生時代から想いを寄せる人が
いた。「川上音次郎」の妻「貞奴」だった。「貞奴」も「音次郎」
という夫がいながら、「桃介」のパートナーとなって事業を助けた。
世間から見れば「公然たる不倫」である。「桃介」は福沢諭吉からも
快く思われず、当然、経済界で活躍する慶応のOB達からも
疎外されることとなった。

当然「お房」さんは面白くない。東京渋谷区広尾の400坪もある
敷地に、「房」さんは母屋と別棟の二棟新築し、二人は敷地内で
別居することとなる。

「桃介」は「諭吉」とは真逆で「歌舞音曲」が大好きだった。
広尾の「桃介邸」には、劇場館まであり、役者を呼んでは
演劇鑑賞会なども行われた。

貞奴が日本初の「女優養成学校」を作るのにも惜しみなく
援助している。名古屋には「桃介と貞奴」が住んだ邸宅が
名古屋市に寄贈され、今「双葉館」として公開されている。
当初「貞奴邸」と呼ばれていたが「不倫相手の名を冠するのは
けしからん」との声もあって、以前あった場所の地名をとって
「双葉館」。



福沢桃介と貞奴

2019-04-04 20:39:38 | 虚無僧日記

福沢桃助は福沢諭吉の娘お房の夫。しかしお房とは                                        ソリが合わず、貞奴がビジネスパートナーとなった。

南木曽の桃介橋の側にある、福沢桃介と貞奴の
住みかとなった邸宅が、今記念館となっている。

桃助の正妻 お房が住む渋谷区広尾の本宅は
戦後千代田生命が買い取り、研修センター
として使われていた。そこが私の職場だったから、
とりわけ、桃介には思い入れが有る。

名古屋市東区の邸宅は、今、名古屋市が
所有し、『双葉邸』として公開している。

岐阜の鵜沼には、貞奴の菩提寺「貞照寺」と
広大な邸宅があり、貞照寺は犬山の成田山の
管轄下にあり、邸宅は都筑紡績が所有していた
が、同社が倒産し2億円で売りに出たとか。

桃介は貞奴との仲が公然となるに伴い、
福沢家と慶応閥の財界を敵に回した。それ
にもめげず、己れの信ずる道を貫いた。
そんな、桃介と貞奴の生き方に、私は共鳴
するのである。




福沢捨次郎の妻

2019-04-04 08:40:21 | 虚無僧日記


千葉の「佐倉」と言えば、義民「佐倉惣五郎」。福澤諭吉も
「古来唯一の忠臣義士」としてその名を挙げているとか。

そして もう一人、佐倉出身の有名人は、順天堂の生みの親
「佐藤泰然」。ネットで調べてびっくり。「佐藤泰然」の
長女「つる」は「林洞海」に嫁し、弟(佐藤泰然の五男)
「董(ただす)」を養子にしている。そして、「林 董」の
娘「菊」は 福沢諭吉の次男「捨次郎」の妻となっている。

つまり「佐倉」は、福沢捨次郎と わずかながら縁がある。
私の尺八の師「堀井小次郎」は、その「福沢捨次郎」の
愛妾の子である。福沢家の系図には載っていないが、
堀井小次郎は、父の庇護のもと、東京大田区池上に屋敷を
もらい、慶応に入学し、昭和6年法学部を卒業している。
堀井家には「捨次郎」の写真が保管されていた。


また、「林洞海」と「つる」の長女「多津」は「榎本武揚」
に嫁している。「つる」の弟で養子の「林董」は、初代駐英
大使で、さらに外務大臣、逓信大臣などを勤めた。

明治の人脈は、閨閥を辿っていくと、意外な事実が判って
面白い。


福沢楡吉の孫「堀井小二朗」

2019-04-04 08:39:20 | 私の尺八遍歴

昭和40年代に「日本音楽集団」や「尺八三本会」が
邦楽界の最先端を行き、それを学生達が熱烈支持
したのは、安保反対の学生運動と無関係では
ありませんでした。私は“右寄り”でしたが、
因習的な邦楽界、家元制度への反発もありました。

「堀井小二朗」師は「福沢諭吉」の次男「捨次郎」の
妾腹の子でしたが、「福沢楡吉」の孫たちの中で
一番「福沢諭吉」に 顔が似ていました。「福沢楡吉」が
「封建制度は親の仇でござる」といい、西洋の文物を
日本に紹介し、因習を否定し、啓蒙を図ったように、
「堀井小二朗」師は、邦楽界の改革を行った人でした。

まず、「音程もリズムもデタラメな尺八界」をなんとか
しなければと、尺八の楽器としての改良を目ざしました。
チューナーなど無い時代ですから、製管師は耳だけが
頼りで、音律など合わない尺八がほとんどでした。

箏の会などに尺八家が伴奏で呼ばれていきますが、
所詮尺八家は“素人の旦那衆”ですから、“先生、先生”と
チヤホヤされますが、「御祝」を持参して出させて
いただく立場でした。堀井師は「私は“音楽家”
ですから、演奏で食べていますので」と、ギャラを
要求したのです。すると筝曲界では「なんてお金に
汚い人だ」という噂が広まり、三曲界からも干されて
しまったのです。

堀井師が「演奏家ですから演奏料をください」と
云ってくれたおかげで、今日の尺八家が「演奏料」を
いただけるようになったのです。

私も昔、ある箏の会から「3万円でいいですか」と
いわれて、てっきりギャラだと思ってOKしたら、
当日「出演料(会費)」として3万円を請求され、
真っ青になったことがありました。そんな時代
だったのです。

堀井師は「家元制度」と「免状制度」も否定して
いました。年数だけで、調弦もロクにできない、
歌も歌えない人が、箏の師範免状をもらっている
のはおかしい。洋楽の世界にはそんなものは無いと
いうのです。

ですから、私も、学生の頃は「家元制度 粉砕」を
叫んでいました。今、この歳になると「家元制度は
邦楽家の老後の生活ために必要なもの」との理解を
示しています。