生命保険の制度を日本に初めて紹介したのは福沢諭吉。
福沢諭吉は慶応3 (1867) 年欧米を視察し、翌慶応4年
(1868) 『西洋旅案内』を出版した。この年はもう明治元年
となる。
この『西洋案内』の下巻に「災害請合いの事」として
損害保険のことが詳しく書かれている。そして「生涯
請合いの事」としては2ページ。
「組合を立て、人の生涯、達者の内に年々何ほどかの
金を取りて、もしその人病気を煩い、渡世の出来ざる
ようになれば、死ぬまでの手当てを年々組合より払い
戻し、また約束次第にて、死後の妻子を養うこともあり」
「病気で働けなくなったら、死ぬまで」というのだから
『所得保障保険』か。「死後の妻子を養う」というのが
「生命保険」だ。
また「老年に及んで不幸にして妻子を失い、死後の心掛け
なき様になりし者は、それまで払いし金を自分生涯の内に
取り返し、安楽に命を終えることもあり」という。
『養老保険』の満期金か『年金』のようだ。
これだけの記述を読んで、13年後に「共済五百名社」を
設立したのが安田善次郎。これが安田生命の前身となった。
明治13年には、まだ「生命保険」という言葉は無かった。
千代田生命は、第一生命に遅れること1年半後の
明治37年(1904) 門野幾之進によって創業された。
「相互会社」としては、第一に次ぐ2番目の会社。
門野幾之進は、鳥羽藩の家老の家に生まれ、14歳で
慶応義塾に学び、16歳で教鞭をとり、以来31年、
福沢諭吉の後をついで塾頭にまでなった。しかし
「英語の成績が60点以下の者は落第」という校則を
作ったことで、塾生の反発を招き、塾を退いた。
長年教職にあったが、福沢諭吉が説いた生命保険
の理論を実業に生かすべく保険会社を設立した。
それが千代田火災と千代田生命。48歳の時だ。
時代は丁度、日露戦争が勃発した年。国は、富国
強兵のために八幡製鉄や造船業などの基幹産業を
起こす金が必要だった。
契約者から預けられた掛け金は、そうした基幹産業
に貸付けられ、国威高揚の一翼を担う役割があった。
「人生50年」、平均寿命50歳の時代、もう現役を
退いて隠居の身となってもよい年回りだったが、
門野幾之進は、生損保会社を立ち上げ、みずから
全国を行脚して、生命保険の普及に努めた。
全国に散らばる慶応義塾のOBを訪ねて廻ったのだ。
まだ清水トンネルも開通していなかったから、
新潟に行くには、草鞋を履いて三国峠を越えたという。
塾出身者はたいてい地方では名家であり、それなりに
事業で成功していたから、行く先々で教え子たちの歓迎
を受け、代理店を引き受けてくれた。
だから、わずか1年で契約は1万件を越え、先発の
第一生命を追い抜いた。千代田生命は戦前まで、日生、
第一、明治と肩を並べる大手生保だったのだ。
というわけで、千代田生命は「慶応閥」で「三田生命」
と揶揄されたほどだった。経営破たんに陥ったのも
「お坊ちゃん経営」だったとも。